のために良いのだろうねえ」
「私には、昔は、ないよ」
 お久美はそのとき、フッとまた、石のような重い呟きをもらした。
 そのとき、この邸へ酒気をおびて乗りこんできたのは八十吉であった。
「ヤイ、女房とオフクロをだせ」
 この報せをうけて、ナニ、オレが片づけてやるよと、軽く立上ったのは一力であった。こういうことなら、お手のものだ。八十吉を別室へよんで、いくらか握らせ、
「当家はむかしの旗本で、お久美さんの遠縁に当るもの、かねて行方をさがしていたのだ。お前らにも悪いようにははからわない。数日後には返しもしようし、そのとき、お前たちにも存分にお見舞いをだすから、今夜はひきとりなさい」
 荒海で、イノチをかけて生きてきた老勇士、静かな言葉にも、荒くれ男の胸にひびく真実がある。八十吉はペコリと頭を下げて、
「ヘエ。そうですかい。お話は分りましたが、念のため女房にだけ会わせて下さい」
「なるほど、それは尤もだ」
 そこでお園に言い含め遠縁の者だという程度に、深い話はせずに安心させて返してくれるようにと八十吉のもとへ差しむけると、お園は案外にも、みんな打ち開けて、
「お母さんはイヤだと云うが、ひとま
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