いても、大人にきいても、
「知らねえよ」だ。
男のアンマと女のアンマの年寄夫婦に、若い車夫の夫婦がいるうちはどこだい、と、お龍がキテンをきかして質問の方法をかえてみると、さすがに分った。
はじめは知らぬフリをして通り過ぎて中をチラとのぞいてみる。ありがたいことに、貧民窟は開けッ放しで、どこも中がまる見えだ。障子に紙などというものが張っておけるぐらいなら、誰が貧民窟に住むものか。一度二度通りすぎて確めてみると、男のアンマも、息子の車夫も、たしかに居ないようである。そして幼い子供たちがギャア/\泣いている。
お龍がコンチハと訪うと、こういうまる見えの家でも見えないところがあるものだ。勝手口の方から、アイヨ、ダレ? と顔をだしたのは世帯やつれした女。よく見れば若々しいところもあるが、駒子と似たところがなく、利巧さが目に見える顔ではあるが、世帯の苦労で二十の年より八ツも十も老けて見える。どこに伏兵がいるか分らないから、
「この家ですかね。メクラの爺さんと、その息子がいるウチは?」
「ここだけど、男は二人とも出払ってるよ」
それをきいてお龍は安心。声を落して、
「私はこんなナリをしているが、実はある人に頼まれてきたんです。むかし旗本の梶原正二郎という人にたのまれたのですが、誰にも知られぬように、あなたとお母さんにそこまでつきあってもらえませんか」
女の顔には感動よりも訝しげな翳がさしたが、無言で物陰へ隠れたのは、そのちょッとばかりの陰にメクラの母がいたのである。二人はヒソヒソ相談していたが、近所の婆さんに後をたのんで、二人のあとをついてきたのである。二人は例の大木戸の家へ母と娘を案内してぬりつけた炭や泥を落して、着物をきかえて現れて、正二郎は名乗りをあげ、寛永寺へ立てこもってからの一部始終をこまかに物語ったのであった。
「昔のことは、みんな忘れた」
こまごまと全ての話をきき終っても、お久美はまったく無感動であった。毛スジほどのなつかしさも浮かべず、折れた歯でもこぼすように呟いたのは、それだけだった。
「今連れ添う二人の男にはそれぞれ充分に報いをするし、裁判がきまったあとでは五人の子供もひきとって、生涯大事に育てるから、それまではむごいようだが二人の男には内密に、今から直ちにウチへ来てくれまいか」
「あんたは誰さ。昔のことは忘れたよ」
「お園の父の梶原正二郎だよ」
お久美は返事をしなかった。さすがにお園はまだ若いし、母がイコジになるだけ、彼女は冷静に考えた。別に父はなつかしくなかった。自分でもフシギなぐらい父がなんでもなく見えるのである。しかし、血をわけた駒子、まだ別れて生々しい彼女と父と名のる男との意外な関係が妖しい血を顔にベットリ塗られたように薄気味わるく気にかかった。
「とにかく、駒ちゃんに会ってみましょうよ。ねえ、お母さん」
無感動のお久美には否も応もなかった。そこで人力車をたのんでもらって正二郎の屋敷へついたが、誰知るまいと思いのほか、この車夫の一人はお園の亭主の八十吉とは車夫仲間、バクチ仲間。お園とは顔見知りの仲ではなかったが、お園とその母のメクラ按摩と杖代りの娘については街で見かけて見覚えている男であった。
待っていた駒子は、母と姉を迎えて大よろこび。自分の部屋へ二人をともなって、くさぐさの話を物語る。駒子に一応まかせるのが何よりであるから、正二郎はわざとそれを見送って、自分は上京中の一力と、まずまず第一段は成功。お龍もよんで労をねぎらい、お龍のお酌で乾杯する。一力も話をきいて感無量。
「そういうものかねえ。しかし、昔のことは忘れた。あんたは誰だ、というお久美さんの心もしみじみ分る気がするなア。貧乏人は金持になりたがったり、あこがれているかも知れんが、自分がドン底へ落ちているのに、二十年前に生き別れて死んだと思った亭主が金持になって現れては、今の自分の境遇以外は忘れたかろう。金持の幽霊よりも、今の自分がなつかしかろうよ。本当に昔が忘れたいに相違ないなア」
「そうですかねえ。貧乏人のヒガミですよ」
「イヤ、イヤ。お龍さん。あこがれたものが呆気なく目の前に出てきてみると、人間は今の自分が大事なことが分るものだよ」
一力の言葉に力なくうなだれて声もないのは正二郎であった。
駒子の口から改めて正二郎と同じことをきかされると、お園にはそれが別の、なにか浄ルリをきくような切ない宿命を感じさせられたのであった。駒子は母と姉が殆ど気乗り薄にこの邸へ同行してきたことを知らなかった。彼女には、母と姉の言葉をききだそうとする余裕などはなかったのである。悲しく張りわたって、自然に曲をかなでる琴かのように、とめどなく、語らずにいられない駒子であった。
「姉さん。私はどうなるのでしょうね」
駒子の口から思わずその言葉がもれた。妖
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