源のツラ憎いこと。それにくらべれば、どんなことでも我慢しなきゃアいけますまい」
 実に尤も千万な忠告だった。なるほど、そうだ。本妻といえば、お米じゃなくて、お久美のはずだ。それを今さら駒子に打ち開けるのは切ないが、お米お源の出現に誰よりも悲しい思いを噛みしめている駒子のこと、彼女の母が正二郎の本妻であったと知って驚くにしても、時によりけり、杖とも力とも頼む思いがするかも知れん。そこで駒子に昔の事情を隠すことなく細々と打ちあけた。
「私にはお前があるし、お久美には今は連れ添う男があると知ったから、前世の宿縁とあきらめすべてを知らぬフリでこのまま過したいと思っていたが、お米お源が現れては仕方がない。お前の立場も私の立場も苦しいが、お米お源に住みつかれるよりはどれぐらいマシだか分らない。一応お久美とお園をここへひきとって、正式に訴えて出るから心をきめておくれ」
 実子とは云え、まだ見たことのないお園にはさほどの情も覚えないが、お久美には顔を合せるのも心苦しく、はずかしい。全ての責任が小心弱気の自分にあったのだとツクヅク思い当るからである。
 駒子もあまりの意外さに呆れたが、思い返せば、誰が企らんだわけでもない。知らぬうちに、大きな運命の手が義理の父と娘を不義の仲にしていたのである。しかし、これが不義であろうか。ただ運命があっただけだ。正二郎にも自分にもヨコシマな思いはミジンといえどもなかったのだ。
「お母さんがここへ来たら、私はどうなるのでしょうか」
 それが何より訊きたい言葉であったが、言うことができないのだ。怖しいのだ。天地に羞じるところはないが、浮世の義理人情が怖しい。母は再び正二郎の妻であろうか。そして自分は、どうなるのだろう? その時こそは、本妻の娘が義理の父のメカケでありうることは許されないに相違ない。自分はいッたい、どうなるのだろう。正二郎も母もお園もそれで万事うまく行くかも知れないが、自分だけは、いったい、どうなるのだ。自分の味方は天にも地にも居ないではないか。
 今にも胸がはりさけて破裂してはじけ出るかと思われるその切ない言葉が、たった一ツ言うことができないのだッた。
「まア、うれしい。お母さんや、姉さんが、ここに住んで下さるの。散々お世話になり迷惑ばかりおかけしたお母さん姉さんですもの、一しょに住めるなら、私はどんなことでも辛抱するわ」
 駒子はこの上の嬉しいことはないように、ほころびる花のようにニコニコと答えたのである。

          ★

 新宿の大木戸に、むかしお龍の朋輩芸者の婆さんの働く家があるので、正二郎とお龍の二人は先ずその家で一服した。
「実はね。この旦那と私は大久保のさるお邸の仮装会で乞食の夫婦でアッと云わせようというダンドリでね。御迷惑でも、あんたのところで仮装させてね。まさか旦那のお邸から乞食姿じゃ出られないのでねえ」
 と、巧みに友達をごまかして、二人は乞食に変装した。鮫河橋のメクラ女がお久美その人だという確証はないが、名前は梶原久美だから、まずその人に相違あるまい。しかし、お園の夫の車夫がシタタカな悪だというから、車夫にも、男アンマにも悟られぬように、お久美とお園を誘いだして、彼らの胸中をきき、助力をたのむツモリであった。そこで晴天の日を見はからい、車夫が仕事にでたところを見て、乞食姿の二人は鮫河橋の貧民窟へもぐりこんだ。
 ここは谷町一丁目、二丁目、元鮫河橋、鮫河橋南町という四ヶ町から成り、まさしく高い丘の崖下、谷に当る陰気なジメジメしたところであった。貧民窟というものは、なんとまア子供が多くて、色々様々な雑音騒音狂音がわき立っているところであろうか。ドブの匂いを主にして甘い匂いも焦げる匂いもボロの匂いも小便の匂いも、実に複雑な匂いにみちたところでもある。ここでは知らない者がみんな闖入者であり、異端者であり、誰でもジロジロ見られたり、わざと無関心にソッポをむいたりされるのだった。どの家もみんな同じだ。家の構えだけがそうではなくて、家の内部に在る物はチャブ台代りがミカン箱であるし、家毎に干してある物は同じボロで、それがオシメであるかシャツであるか見分けのつかないような全てが同じ物だ。狭い路地の、どうしても干し物のシズクをかぶらずに通れないような道の隅に必ず朝顔だのヒマワリが植えてあるのもみんな同じことである。そしてどの軒にも決して表札がないのである。この町内へもぐりこみ訪ねてくるのは巡査とか借金取りとか、どうせロクでもないものに限っているから、表札なぞというものほど無役《むえき》有害なものはないのである。
 方角は駒子からきいてきたのだが、どうして、どうして、この土地の概念を持たないものが世間並に方角などきいてきたって役に立ちやしない。
「梶原さんてえのはどこだね」
 と、子供にき
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