ちの方は皆さん覚えがおありでしょうよ」
「それがあなた、奥さんの前だが、私はあの一夜のほかには誰にも負けがこんだてえ覚えがないのだからね」
そこへギンがポッポッと湯気のたつウドンのドンブリをもって現れた。それを甚八と東太の傍におく。ソノがドビンを持って現れて、お茶をつぐ。
「いよいよドンブリが現れたね。これから、そろそろ幽的の現れる刻限だね」
「あと十分ぐらいのものかね。津右衛門どのが息をひきとられた時刻までは」
ひとしきり言葉がはずむと、一座はさすがにシンとした。その断末魔を見とどけた千代には思いだすのも辛い時間であったろう。甚八とても目にアリアリと残っている情景、気色のいい時間ではないらしく、目をとじて、顔をふせたが、フシギや甚八の面色は土色に改まり、額に汗がうき、彼は握りしめた手をひらいて、急いで胸をかきわけるようにしたと思うと、前へのめって、畳をむしり、
「ウッ。ウッ。ウッ」
彼はバッタリ伏すと、もがいては前へすすみ、ドンブリへ五本の指をそッくり突っこんでひッくりかえした。一面にウドンの海だが、甚八はそんなことはもはや意識にないらしく夢中に畳をむしり、ときには力つきで俯伏
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