ボツボツ幽的をだしてくれ。こッちは気が短けえや」
「まアまア、棟梁、そう短気を起しちゃいけない。めったに見られない見世物だから、ゆっくりお手並拝見とシャレよう」
「それも、そうだね。しかし、いつまで待たせるのかね」
「刻限があるのだそうだ。その刻限になると手打ウドンがでてくるそうだから、そのへんへきたらそろそろ幽的のでる刻限だと思わなくッちゃアいけないね」
「甚だ面白えや。するてえと今はどのへんかなア。今ごろは白のいいとこのない局面だったね」
 そこへお茶を持って現れたのは、千代である。甚八は苦笑して、
「そうだっけなア。なんでも奥さんが茶を持ってきて、そんときからオレの形勢が逆転したんだねえ。つまらねえ筋を見落したものさ」
 思えば残念この上もない。五段とはいえ素人相手に四目で打ち負かされたとあっては、一生ねざめが悪いのである。甚八は渋いお茶を一息にほして、
「奥さんがあのとき現れなければ、私は負けがなかったかも知れないね。負け碁に仲のいいところを見せつけられちゃア、のぼせちまわア。オレも若かったなア」
「誰でも負けがこむと、同じ手合の人でも三目ぐらいまで打ちこまれるそうですわ。碁打ちの方は皆さん覚えがおありでしょうよ」
「それがあなた、奥さんの前だが、私はあの一夜のほかには誰にも負けがこんだてえ覚えがないのだからね」
 そこへギンがポッポッと湯気のたつウドンのドンブリをもって現れた。それを甚八と東太の傍におく。ソノがドビンを持って現れて、お茶をつぐ。
「いよいよドンブリが現れたね。これから、そろそろ幽的の現れる刻限だね」
「あと十分ぐらいのものかね。津右衛門どのが息をひきとられた時刻までは」
 ひとしきり言葉がはずむと、一座はさすがにシンとした。その断末魔を見とどけた千代には思いだすのも辛い時間であったろう。甚八とても目にアリアリと残っている情景、気色のいい時間ではないらしく、目をとじて、顔をふせたが、フシギや甚八の面色は土色に改まり、額に汗がうき、彼は握りしめた手をひらいて、急いで胸をかきわけるようにしたと思うと、前へのめって、畳をむしり、
「ウッ。ウッ。ウッ」
 彼はバッタリ伏すと、もがいては前へすすみ、ドンブリへ五本の指をそッくり突っこんでひッくりかえした。一面にウドンの海だが、甚八はそんなことはもはや意識にないらしく夢中に畳をむしり、ときには力つきで俯伏
前へ 次へ
全34ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング