黒石は死んでいるのだ。
 津右衛門は甚八が顔色を変えて坐り直したのを見て、ほほえみ、
「夜もだいぶ更けたようだから、このへんで寝ようではないか。お前さんも目が血走って兎の目のようだよ。身体に毒だな」
「目の赤いのは生れつきだ。江戸ッ子は徹夜でなくちゃア碁は打てねえ」
「そうかい。それじゃア、夜食でもこしらえてもらいましょう」
 どこの碁打の家庭でも夜更けの夜食には馴れている。かねて用意の手打ウドンがポッポッと湯気をたてて運ばれる。
「甚八さん。おあがり」
「どうぞ、あついうちに召上れ」
 と千代にも言われても、それらの声が耳につかないらしい。甚八は尚執念さりがたく、殺気走った目をこらして盤上を睨みつづけている。その隅が死んでは、とうてい足らないようだ。しかし、ほかに勝筋はないのか。津右衛門はすでに黒の勝筋なしと見極めているらしいが、それが口惜しくて投げられない。
 津右衛門はドンブリをとりあげたが、そのドンブリを膝の上へ下し、一箸もつけずにだんだんうなだれた。次第に顔色が蒼ざめてきた。ジッとすくむように見えたが、ポロリとドンブリを落した。
「ウッ!」にわかに胸をかきむしり、前へつんのめると、エビ型にまるまって、虚空をつかみ、タタミをかきむしった。その場に、千代も女中も居合わしたので、甚八に毒殺のケンギがかからずにすんだようなものだ。こういう急変になると、当時の医学では、病死か毒死か見当がつかない。その場の状況、毒殺の原因の有無で、どっちかに定まるような怪しい医学だ。まだドンブリに一箸もつけない時だから、タタミ一面ドンブリの海だが、甚八はケンギをまぬかれたようなもの。狭心症とか脳溢血というような急変であったろう。
「…………」
 津右衛門はのたうちながら、妻をさがしているようだ。何か言いたいことがあるが、もう声がでないらしい。彼の右手は何か異様な運動をした。何か意味のあることをしようとするらしいが、ケイレンや、苦しみもがくことに妨げられて、瞬間的な持続しかないので、意味を完成することができないのである。
 彼は碁盤の方に向って、時々手をのばすのだ。と、苦しみのために、もがかねばならなくなる。また、同じ方向へ手をあげる。手をのばす。幾たび目かに気がついたが、指が一つの方向を指しているのだ。千代はその指を見つめて考えた。何かを指さすのでなければ、あのように手を握り、一本の
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