レはたしかに八十吉がデッキから戻ってきたのを聞いた筈だが」
 と訝かったのは清松である。
「あれはまだ宵のうちだ。九時半か十時ぐらいに相違ないが、金太が八十吉の落ちた声を聞いたてえのは朝方じゃアないか」
「とんでもない。オレがそれと入れ違いに大部屋へ戻った時は、だらしなくノビた奴も半分いたが、半分はまだバカ騒ぎの最中よ。九時半か、十時ごろだ」
「そのとき今村は大部屋にいたか」
「そこまでは気がつかねえや。なんしろバカ騒ぎの最中だし、半分は酔い倒れていやがるし、ロウソクは薄暗えや。オレは隅ですぐ寝ちまったからな」
「人が海に落ちたのを見ていながら。だから、お前はウスノロてんだ」
 と五十嵐。
「だからよ。オレにしてみりゃア、船長室へ降りた奴が教えに行ったと思ってらアな。ふんづかまって働かされちゃアつまらないから、早く寝たんだ」
 その時、思いつめて問いただしたのは清松の声であった。
「おキンさんにきくが、八十吉は十時ごろ一度戻ってきやしないか。イヤ。たしかに戻ったに相違ない」
「いいえ。戻って来ませんよ。戻って来たとすれば、私は寝ていて知らなかったが、翌る朝の様子では夜中に戻った様子はありません」
「イイヤ。お前の部屋へはいった者がたしかにいた。オレはこの耳できいていたのだ」
「部屋の間違いじゃないの?」
「そんなことはねえや。オレの部屋の隣は船長室だ。オレの真向いがお前の部屋だ。今村の部屋はお前の隣り、船長室の真向いだが、二ツの扉はちょッと離れているぜ」
「なんだか気味が悪いわね。いったい誰が私の部屋へはいってきたの。私は寝ていて知りやしないよ」
「不思議だなア。あれが今村だとしてみると、どうもオレには分らねえや」
「いったい、私の部屋へはいった人が何をしたの?」
「それがハッキリ分らねえや。その男がお前の部屋へはいると間もなくオレは眠ってしまったんだ。ただ、オレが知っているのは、その男はデッキから降りてくると船長室へはいったのだ。三十分ぐらい船長室にいて、それからお前の部屋へ行ったのだぜ」
「船長室で何をしたの?」
「それがオレには分らない。別に話声もきこえないし、シカとききとれた音もねえや。どうもな。まさか、人を殺しているとは知らねえや」
 清松は何となく言葉を濁した様子であったが、キンの反問が今度は鋭かった。
「人を殺した音がきこえなかったというの? 板一枚で
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