も見当りません。方々探して、三時半ごろまでうろついていましたが、先にお帰りになったのかも知れないと、いったん戻って参りました」
「奥さんの姿が見えないと分ったのは何時ごろだね」
「何時ごろか正しいことは分りませんが、一時ぐらいかも知れません」
どうやら殺人の現場に当りがついてきた。大行李に詰めてあったも道理、女剣劇の荷造りの中に、荷物の一ツのように見せかけて荷造りされたように思われるのである。
そこへ横浜から夢之助はじめ、小山田新作、荒巻敏司らが連行されてきた。ここに至って、事件は直ちに解決するものと、新十郎はじめ、甚だ簡単に考えたのだが、あにはからんや、これより益々迷宮に入るのである。
★
先ず意外なのは荒巻の証言であった。彼はこの日、十一時ごろ、いつもの通り露月でヒサと会う約束であったから、十一時前から露月で待っていた。十二時、一時をすぎてもヒサが姿を見せない。二時ちかくまで待っても見えないので、諦めて飛龍座へ戻ってくると、そこに彼を待っていたのはヒサではなくて、看護婦の常見キミエである。
キミエは荒巻が学校を中退して故郷へひッこむということを知り、学校を卒業したら結婚するという口約の実行をせまるために彼の姿を探していたのであるが、すでに男に裏切られたことは明かであるから、顔に硫酸をブッかけて恨みをはらすのが目的であった。不覚にも荒巻は夢之助の部屋へ逃げたが、そこに夢之助が居合したなら、悲劇はさらに大きくなったかも知れない。幸いキミエの手もとが狂って、荒巻は外套をボロボロにしただけで助かった。
帰郷する筈の荒巻が尚東京にとどまっているのは、ヒサを郷里へ同行せしめるためであった。業半ばに中退とはいえ、帰郷後は就職して一家をなすのであるから、やがてはめとる妻であり、彼はヒサに駈落ちを申しこんでいた。当分華やかな暮しは出来ないかも知れないが、ヒサも切に荒巻との結婚を希望していた。とはいえヒサには母もあり、単に二人だけで手に手をとってとはいかないから、家をたたんで後を追うには用意がいる。それを充分に打ち合せるために東京にとどまってアイビキをつづけていたのである。
彼は汽車にのるはずの十一月二十九日以来、夢之助の家に泊っていた。夢之助は荒巻がヒサを妻にめとることには同意しており、快く手をひくだけの温い心をもっていたのである。十一月三十日
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