ところもあります」
「誰がそのようなことを思量したのだえ」
「拙者でござるよ」
「そうだろう。虎でなくッちゃア、そうは頭がまわらねえやな。魔獣というのは何だえ」
「さ。そのことでござるよ。大なること小牛のごとく、猛きこと熊も狼も及び申さぬ。世に奇ッ怪な大犬でござるよ。グレートデンと申す」
「グレートデンは西洋で名の通った普通の犬だ。だが、そのような犬が日本のカケコミ教にいるというのがおもしろいな。いろいろ曰くがありそうだ。だが神通力といえども必ず裏には仕掛があってのことだよ。水芸や西洋手品と同じことだアな。虎のようにこれを魔力と見てかかっては、裏の仕掛は分らないぜ。お前の主観が邪魔になるが、オレの目にありのままの現実が見えるように、写真機の如くに語ってごらんな」
海舟は手をのばしてタバコ盆のヒキダシから、ナイフと砥石をとりだした。
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天王会は広大天尊、赤裂地尊という天地二神を祭神とする。この二神が宇宙天地の根元で、日本の神の祖親に当っているそうだ。この化身として世直しに現れたのが、別天王とよばれる世にも類い稀れな美貌の女、これが信徒の崇敬を一身にあつめる教祖なのである。
別天王は俗名を安田クミと云って、当年三十五、亭主もあるし、子供もある。貧乏なトビの娘に生れて、十四の年にタタキ大工の安田倉吉と結婚し、翌年一子を生んだ。それ以来、夫婦の行いを嫌い、天地二神の来迎を目のあたり見るようになったのである。一子は後に千列万郎と改名し、教会の二代目をつぐべき人となっている。
別天王の最初の信者になったのは亭主の倉吉である。裏長屋の自宅を教会に若干の信徒を集め、まもなくタタキ大工の倉吉が自分でたてた門構えの教会へ移り住んだが、そのころは若干の信徒だけに名が知れていたにすぎなかった。突如天王会の名が天下に知れたのは数年前、世良田摩喜太郎が洋行から帰って、別天王を信仰するようになったからだ。
世良田は明治初年に地方の府県知事を二ヶ所歴任したあと、地方行政、税法、選挙制度など研究の任務をおびて洋行し、十一年間遊学して帰朝したのである。末は国政の柱石たるべき人と目されていたのに、本業をうッちゃらかして、別天王の一番番頭となってしまった。別天王の色香に迷い、籠絡されたという説が専らであったが、これが人気をよんで天王会は忽ち天下の注目をあつめた。十一年間西洋で仕込んだ政治学や手腕を天王会の布教に傾けたから教会が大をなすのは当然だ。
もう一人、大野妙心という四十がらみの坊主が参謀についている。禅から天台、真言と三宗を転々、いずれも秘奥をきわめて仏教に絶望したという。文覚以来絶えてない那智の荒行をやって、十幾たび気を失い、天下に名をとどろかした怪僧であった。彼は世界各国の宗教の教理に通じていると云われ、又、その弁舌の妙、音声は朗々とたなびいて項《うなじ》をまき懐に入り手をくぐり、妙香の空中を漂うごとくであると云う。彼が別天王に帰依して以来、婦女子の信徒が目立って多くなったというが、婦人に対する彼の魅力は特に偉大をきわめるようで、その威力は謎であった。
ここに哀れをとどめたのは亭主の倉吉で、次第に奥の殿から下へ下へと放逐されて、平信徒もその末席、教会の下男、その又下働きのようなものに成り下っている。風呂の釜たきの牛沼雷象と同格、教会の寄生虫なみに扱われていた。
世良田摩喜太郎の政治的手腕によって、藤巻公爵を会長とし、町田大将を副会長とする後援会が組織されて天下の名士の名を並べているが、これは信徒とは関係がない。ただ名をかした程度であった。
ただ一人、教会に入れあげて微禄した名士に山賀侯爵がいる。この侯爵はまだ三十五、大そう頭の良い人だと将来を期待されていた人だが、別天王にこりかたまると完全なバカになった。もっとも侯爵夫人かず子が輪をかけての狂信者で、侯爵夫人にひきずられて次第に深間へはまったといわれている。
山賀侯爵はその宏荘な久世山の大邸宅をそッくり天王会の本殿に寄進してしまった。自身は、邸内の一隅にかねて弟達也の別居用につくっておいた質素な洋館へ引越し、わずかに残った株券で見る影もない生活をしている。弟達也は当年二十五、立派な青年紳士であるが、自分の住むべき家は兄貴に住まわれ、自分が割譲さるべき財産は兄貴に全部使い果たされ、やむを得ず兄の居候となって、不平満々の日々を送っている。天王会の本殿境内で唯一の異端者は彼であり、彼は天王会を目の敵にしていた。
さて、月田銀行頭取全作の妻まち子(当年二十七)は山賀侯爵夫人かず子の妹であった。姉妹は深堀伯爵家の生れであるが、深堀家は暦日天地の陰陽吉凶の卦を司る家柄で、風雨を意のままにするところから天神の怒りをうけて、代々男児は白痴に生れ、女児は非常に美人であるが、これ
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