とだ。別に死の前のどうこういう様子に見えたわけじゃアない」
「しかし、しやがみながら、胸をかきむしったなア。こう、何か胸にだきしめるような様子だった」
「胸に? 腹じゃアないのですか」
「イヤ。つまり、何かだくような様子です。だくといったって、ハダカだから、だいてるわけじゃアないなア。つまり、胸をこう、こすったのかな。私はハッキリ見ました。つまり、あれは死の苦しみというのかなア」
 彼らの目撃していたことは、それだけであった。
 新十郎は楽士を帰して、女中、下男、書生ら、二十数名をよびあつめた。そして、何か変ったことに気附かなかったかと尋ねたが、お絹という若い女中が、おそく戻ってきた五兵衛の謎のような呟きを記憶していたほかに変異を見ている者はいない。
 お絹は顔をあからめながら、
「ハッキリ覚えてはおりませんが、幽霊にだまされた、……」
 お絹は自分の言葉に笑いだして、
「ですが、ほんとに、そう仰有《おっしゃ》ったのです。そして、まさか、アレが生きてやすまい、なんて仰有ったようです」
「戻られたのは、何時ごろですか」
「会場の皆様が大分おあつまりになって後のことでした。いそいで御飯を三
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