まつたとき、初めて感慨を洩らし、道徳を確立し、風景を眺め、而して出発すべきであります。
 不幸にして、日本にはかやうな教養伝統がありません。単なる博学は教壇的なものであつて十年の勉強によつてもかなりのものを会得しうるが、この感情の教養は全く家庭的なものであつて、父子数代の歴史を賭け、誠実にして真剣な追求と教訓と内省と感受と表現とによらなければ、ちよつと会得しがたいのではないでせうか。
 日本の心境小説は、貧乏や情痴に対する内省批判の方法が十年一日の如くであつて、十年一日の規準によつて笑ひ怒り歎き悲しんでゐるために読む勇気がないのですが、私としては、喜怒哀楽を更に掘りさげ追求しきることによつて、新しき批判法を、道徳を、ひいては一切の精神上の価値を確立せずには、文学すべきではないと思はれます。悲しみ、怒り、歎く前に、果してここで悲歎していいのかと批判を働かしてみることは、然し已に一応の教養をもつた人間にとつては、甚だその既得の思想に瞞着され易いものであつて、ただこれだけの単純なことでも、相当の難事のやうであります。要するに、日本の小説家に罪があるのではなく、感情にも追求といふ苛酷な手段のあることを教へなかつた、日本文化史に罪があるのでありませうか。
 数日前、坊主にすすめられて、始めて福音書を読みました。思想の浅深に就てはとにかくとして、基督《キリスト》なる男が、己を信ぜざる者に対して実に生々しい憎悪を懐いてゐるのには一驚しました。悪魔外道をも解脱せしめやうとする仏教に比べて、思想としてはとにかく、人間の血と肉を賭けた文学の出発としては、たしかに基督教を持つ人々が幸福であつたに相違ありません。
 陶淵明に、日日酒をやめようとしたが、止むことの楽しからず、己れを利せざるを知り、平生酒をやめず、といふ呑気な句があります。こと酒となるや、愚生も亦やむることの己れを利せざるを知り、平生酒をやめないところの、基督教徒の如き頑強な追求精神をもつものでありますが、ああ之は果して偉大な道徳の確立であらうか!
 K君、今度は名古屋製のまがひ物ではない酒盃を、九月前にぜひ一対、表記のところへ送つてくれたまへ。
頓首



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「紀元 第二巻第九号」
   1934(昭和9)年9月1日発行

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