かじ》りついても」といふまるで歯ぎしりするやうな口に泡をためた表現と、二十円の箪笥のいくつかを今にも蒲田へ駈けだして買ひたさうな精力的な様子とで、荒君はほんとにさういふものが後日役に立つ生活を自信をもつて信じてゐる。この女のハリアヒのない微笑とは全く逆で、それは全く、私にとつては思ひがけない世界であつた。
私はかう思つた。荒君、平野君らはどうも小説の中の人物に良く似てゐる。だいたい、小説を読みすぎる連中である。あゝいふ考へ方や言ひ方は、現実的であるよりも、小説的で、彼等の足は土をふんでゐるのでなしに、トルストイとかドストエフスキーとかを踏んでゐるのではないのか。彼等はいつたい女房とどんな話をし、私には彼等が女房に言ふ言葉は分るけれども、女房の方の返事はどうだらう?
尤も、荒君、平野君ばかりではない。小説家、批評家、インテリの多くは地方へ疎開して、日本の最後の運命を待ち、自分の生命を信じてゐる。
けれども狭い日本のことで、どこへ逃げてみても、第一どこから敵が上つてくるのだか、それすらもしかとは分らない。私には、どうも荒君の確信が不思議でならなかつた。あんなに口に泡をため歯ぎしりのやうに力をこめて「石に噛りついても」といふ確信の根拠が信じられないのだ。つまり荒君は非常に現実家のやうだが、根柢的には夢想児なので、平野君とて、やつぱりさうだ。俺だけは玉砕せずに手をあげて助かつて帰つてくる、といふ、ひどく現実的な確信のやうだが、戦争といふ全く盲目的、偶然的、でたとこ勝負の破壊性のこの強烈巨大な現実性を正当に消化してゐない観念的な言葉のやうな気がした。こつちの意志だけではどうすることも出来ない現実である。
戦争の場合だけではない。だいたいに荒君らが考へてゐる人間への映像が甘すぎるのだと私は思ふ。つまり魂のデカダンスと無縁なのであり、人のことを考へるが、自分自身の魂と争ふことがないのだと私は思つた。先のことを考へても、本当に今の現実と争ふこと、つまり現実と魂とが真実つながる関係がないのである。
私は女のハリアヒのない微笑の上から、いつも荒君の歯ぎしりを思ひだし、敵が上陸して戦争が始つてから、荒君がどんなことをやるか、をかしくて仕方がなかつた。幸ひ上陸が行はれず思ひがけない結末がきて、荒君は予定通りの計画に乗りだしたけれども、この結末の方が偶然で、本当の現実は「石に噛りついても」生きられる性質のものであつたかどうか疑問だと思つてゐる。そして現実をむしろ夢想をもつて眺めて、どんな卑劣なことをしても生きぬいてみせると悪魔の如く吠えることを好んだ荒君は、私にはハリアヒのない女の笑ひ顔よりも却つて現実の凄味や厳しさが感じられなかつた。女のハリアヒのない笑顔の中には、悪魔の楽天性と退屈とがひそんでゐたやうに思ふ。
私は六月の中頃だらうか、もう東京が焦土になつてのち、勇気をふるつて「黄河」の脚本を書いた。脚本などとは名ばかりの荒筋のやうなもので、半年以上数十冊の読書の果にたつた二十枚の走り書であつた。もちろん一夜づけであつた。たゞ厄をのがれるといふだけの、然し、この厄をのがれるためにその半年如何に重苦しく過したか、私は新聞で日映の広告のマークを見ただけでゾッとした。
人間は目的のない仕事、陽の目を仰ぐ筈がないと分りきつた仕事をすることが如何に不可能なものであるか、厭といふほど思ひ知つた。
まつたく不可能なのである。私は遂に脚本を書いたが、これは正当な仕事ではないので、たゞ重苦しさの厄をのがれるためといふだけの全然良心のこもらぬ仕事であつた。だいたい、あの戦争の荒廃した魂で、私に仕事のできる筈はない。書きかけの原稿を焼いた私は、私自身の当然な魂を表現してゐたのである。私はたゞ退屈しきつた悪魔の魂で、碁にふけり、本を読みふけり、時々一人の女のハリアヒのない微笑を眺めて、ただ快楽にだらしなくくづれるだけの肉体をもてあそんだりしてゐただけだつた。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「太平 第二巻第一〇号」時事通信社
1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「太平 第二巻第一〇号」時事通信社
1946(昭和21)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年7月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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