てゐなかつた。そしてたゞ快楽のまゝに崩れて行く肉体だけがあつた。
「あなたはむづかしい人だから、あなたと結婚できないわ」
と女はいつも言つた。さうだらう、女にはハリアヒといふものが心にないのだから、多分、多少とも物を考へる男の心が、みんなむづかしく見えて、なじみ得ないのであらう。女はひどく別れぎはが悪くて、停車場まで送つてやると、電車がきても何台もやりすごして乗らず、そのくせ、ニヤ/\してゐるばかりで、下駄でコツ/\石を蹴つたり包みをクル/\廻したりしながら、まつたくとりとめのないことを喋つてゐる。さうかと思ふと、急にサヨナラと云つて電車に乗つてしまふ。何も目的がないのだ。
この女はたゞ戦争に最後の大破壊の結末がきて全てが一新するといふことだけが願ひであり、破壊の大きさが、新たな予想し得ない世界への最大の味覚のやうであつた。
女は私の外に何人の恋人があるのか私は知らなかつた。私一人かも知れなかつた。時々風のやうに現れた。私は訪ねなかつた。
「あなたのところ、赤ガミが来ないのね」
「こないね」
「きたら、どうする」
「仕方がないさ」
「死ねる」
「知らないね」
凡そ愚劣な、とりとめのない話ばかりである。第一、女自身、何を喋つてゐるのだか、鼻唄をうたつてゐるのと変りがなくて、喋らないわけにも行かないから、何となく喋つてゐるだけのことなのである。私が又、まつたく同様であつた。むしろ言葉の通じない方がどれくらゐアッサリしてよろしいか分らないのだ。
女の顔はいつも笑つてゐる。ひどく優雅で上品な顔なのだが、よくまアこんなにハリアヒのない心なのだらう、と、私は女の笑ひ顔を見ていつもそればかりしか考へないが、女は又馬耳東風でたゞ笑つてゐるだけのことである。
「黄河の脚本、かいた?」
「書かないよ」
「なぜ?」
「書く気にならないからさ」
「私だつたら、書く気になるけどな」
「あたりまへさ。君はムダなことしかやれない女なのだ」
女は馬耳東風だ。たゞ、相変らず微笑をうかべてゐるだけ。人の言葉など、きいてやしないのだ。何も考へてゐないのだ。
私は然しその魂をいぢらしいと思つてゐた。どん底を見つめてしまつた魂はいぢらしい。それ以外には考へられない当時の私であつた。
だから私は荒正人や平野謙を時々ふいに女の笑顔を眺めながら思ひだしてゐた。特別私が忘れないのは荒正人の「石に噛《
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