きやしや》な姿を現したとき、この虚無的な港市には未曾有の異変に当るべき武人も武器も持たなかつた。警備の武士は新発田《しばた》藩から駈けつけたが、街角を右往左往の警備の武士を見ることに怯えきつた町民達は、白昼から窓を閉して暗らがりの中にひれふしてゐた。列国の領事館が立ちはじめた。因循怯懦の厭世港は黎明日本に皮肉な一役をつとめたのだ。然し結果は恰《あたか》も町の性格どほりにあつけなかつた。港は信濃川の河口にあつた。日本海の激浪を避けることには便利であつたが、屈託のない大河の運ぶ土砂のために港内は浅瀬のひろがるばかりであるし、火輪船の船体は日増しにふとる一方だつた。列国は新潟港の将来に見切りをつけねばならなかつた。一番諦らめの悪い領事さへ、明治十年が訪れた時に、もはやこの土地を引上げてゐた。ひところの異国文化は町の記憶から消えてしまつた。
目白の日本女子大学の前身はこの因循な厭世港市にひらかれた女塾だつた。抑制と飛躍的な情熱が同じひとつのものであるのを、雪国のつつしみ深い娘達が証明した。彼女等はマタイ伝を英文に読み、ラムの諧謔を極めて下手に理解するのが誇りであつた。成瀬校主は女生を率ひて東上した。女子最高学府の多くの古い卒業生に因循な厭世港市の娘達を見出す謎はかういふ理由によるのであつた。
彼女等の一人に田巻いちがゐたのであつた。いちの理想は真善美と童貞マリヤの純潔を汚さぬ生涯にあつたのだ。いちは成瀬先生を追ふて東都に遊学したかつた。いちの父は進歩的な老人だつたが、女子の遊学を認めなかつた。娘に禁足を命じたばかりか、男の愛と家庭を与へて並の女に還元するのが無難な策と考へたのだ。婿の候補者は選定され、話はいちに伝へられた。東京へ行けないための悲しさから、毎日を一人の部屋で泣き暮してゐたいちにとつて、話はあまりに残酷だつた。いちは父と言ひ争つた。口惜しまぎれに外へでた。夜だつた。親しい友は希望に燃えて故郷を去り、残されたいちはひとりだつた。語らう友にも憩ふ部屋にも目当てがなかつた。突然いちは冷めたく決意をかためてゐた。生涯を神に献げて敬虔な祈りの日々を送らう、と。そのほかに道はなかつた。すると恰もすでに救ひを受けたやうな安堵にみちた清々しさが流れてきた。いちはかねて教へを受けた宣教師ブレルスフォードを訪れた。神を道具に使ふ暗さも、自らを憐れむ惨めさもいちの意識を汚さなか
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