せればさうせざるを得ぬ拾ひ物のやうなもので、その利得なども今から見れば問題にならぬ小額だつた。けれども、これが病みつきであつた。
その会社では彼は高い地位ではなかつた。元々徴用逃れに入社した特殊会社であつたが、年齢が年齢だから、入社の浅い割には然るべき地位であつたと云へる。空襲の始まる直前妻子を故郷へ帰したが、空襲で焼け、会社の世話で小さな借家へ同居するやうになつて、同居してゐる会社の女事務員と交渉ができた。彼の細君は父の主筋に当る家柄の娘で、元々父母が押しつけられ、その又父母が大いに有難がつて無理に押しつけた女で、別段家柄を鼻にかけるわけでもないが、陰気で、何かと云へば実家へ不満を書き送るやうなたちである。彼は愛情をもたなかつたが、かうして情婦ができてみると、女房の悪いところがよく分つた。けれども家柄が家柄で父母に対する重みがかゝつてゐるのだから、彼の不安懊悩は話の外で、いつそ日本の姿が消えてなくなれ、と考へてゐたものだ。
終戦となり、会社は解散する、借家も立退くことになつて、立退きをきつかけに、案外面倒もなく女と別れることができた。実際はいくらかみれんもないではない女なのだが、女の方が却つて潔く身をひいたので、妻子のある男とみれんがましくかゝずりあつてゐるよりも、自由の天地らしいものが行く手にひらかれて見えたからであらう。
そのとき立直ればよかつたのだが、解散のどさくさに儲けた仕事が手蔓になつて、闇屋をやり、その景気が封鎖の直前ごろまでつゞいた。立直るといつても、元々好かない女房だ。気のすゝまぬのも尤もで、その女房への気兼ねから女と別れたことも口惜しく、いくらかの女のみれんが、よほど大きなみれんのやうにも思はれてくる。別れた当座大いにホッとしたことも忘れて、実は内心ぐれだしてゐた。
会社の借家を立退いて、彼がやうやく見つけだした一室といふのが、焼跡の高台に小さく取残された一劃で、昔はどこかの番頭だといふ老人夫婦の侘び住居だ。男三人の兄弟の兄と弟が戦死して、まんなかが焼夷弾の直撃で死んだといふ、気の毒は気の毒だが、因業爺で、その二階の一室。唐紙ひとつ隣の部屋にオコノミ焼の母と娘とヒロシの三人がゐるのである。オコノミ焼の女主人は因業爺の姉の子に当るのだが、お前さんの母親はな、私の苦しい時に一文の助けもしなかつたものだ、と、今では邪魔にしてゐるが、焼けだされてきた当座は懐に金があるのを睨んで厭な顔もしなかつた。水商売の女のことで、その頃は応分の御礼を惜しまなかつたからだが、坐してくらへばといふ諺のせゐではなしに、敗戦後は金の値段が一桁以上狂つたから、その所持金はたかの知れたものになつてしまつた。
オコノミ焼の娘がいつ頃から闇の女になつたのだか、夏川はくはしいことは知らないが、娘自身は芸者になりたかつたのださうで、母親は妾にしたかつたのだが、因業爺がくどく言ふので闇の女になつたといふ。それは母親の愚痴話だ。芸者になるには着物がない、着物だ何だと自分の入費ばかりで一文も親の身入りにもならないといふ因業爺の説であり、妾だなどと旦那の物色は金持の先の知れないこの節はやらないことだと云つて闇の女をすゝめたといふのだが、娘は十八、闇の女にはもつたいない美人であつた。然るべきお金持の妾にして左団扇《ひだりうちわ》と母親が子供の頃から先をたのしみに育てたのも水の泡、忿懣《ふんまん》やる方なく因業爺を呪つてゐるが、ことの真相は奈辺にあるやら分りはしない。母親は内気で水商売の女とは思はれぬぐらゐ気立の良さ、人の善さを失はずにゐる女だが、えゝマヽヨと肚をきめると何をやりだすか分らないヤケクソの魂をかくしてゐた。娘自身がわが身の境遇を不幸だなどとは露いさゝかも思はず、近頃では昼夜家をあけることが多く、焼跡の蒲鉾小屋のやうなオデン屋で酌婦をやつたり、闇屋のアンちやんに頼まれて売子をやつたり、時々金はもつてくる。金さへあげればいゝでせう、その言ひ方が癪だと云つて母親は凄い見幕で怒りだすが、さほど下卑た言ひ方ではないので、はすつ葉な物腰物の言ひ方にもまだどことなく娘らしさが残つてゐる。母親にしてみれば、それも亦《また》断腸の種であるかも知れない。
夏川がこの一室へころがりこんだのは、まだ封鎖前の彼の好景気の頂上だつた。そのころ彼はあぶく銭を湯水のやうに使つて、夜も昼ものんだくれ、天地は幻の又幻、夢にみた蝶々が自分の本当の姿やら、何が何だか分らないといふていたらくで、朝から寝床でウヰスキーのラッパ飲みといふ景気で、身辺はオモチャ箱をひつくり返したやうなドンチャン騒ぎの連続であつた。彼はそれを空襲のあの轟音ともまがひのつかぬヤケクソの夢幻の心でだきしめて、ヒロシやオコノミ焼の母娘を芸者のやうに総あげの意気で飲んだり飲ませたり金をくれてやつたり、娘が家
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング