ときりがない。酔態穏良であるけれども、近頃の安細工では椅子をつぶしてしまふので、アラ、来たの、ちよつと待つてよ、今、空樽をそこへ出すから、などゝ、あまり歓迎されないのである。
「ナアさん。御酒が過ぎやしませんか」
 とヒロシが言つたが、もう駄目だ。威勢よく繰りださうといふので、後始末をオカミサンにまかせて、これより一軒づゝ、軒並みに蒲鉾小屋の巡礼が始まる。思念どころか呂律《ろれつ》すらもすでにないので、ヒロシも観念して、たゞ影の形に添ふ如く悄々とついてくる。姐さん連がまさかに内実は御婦人と知る由もなく色目を使ふと、益々武士の娘の如くに凜々と悲しみを深めてゐる。女は御酒はいたゞきませぬ、と自ら言ふ通り、ヒロシは一滴も飲まない。うけた杯はなめるだけで、盃洗へあけて返すのである。
 どこで、どうして関取に別れたか、夏川はもう記憶になかつた。たぶん上野をめざして歩いてゐたのであらう。彼は浮浪児だ、浮浪児だと叫んで歩いてゐた。うしろに右にからまるやうにヒロシが歩いてゐた。アヽ、ちよつと、浮浪児さん、とよびとめて四五人の男がとりまいてゐた。
「あゝ、さうか、街のにいさんか」
「ヘッヘ。おてまはとらせませんよ。ちよつと焼跡の方へ来ていたゞきませう」
「あゝ、いゝとも。なんでもやらあ」
 ひどく気前がいゝ。彼もヒロシも元々持合せがないのである。そこでヨタ者どもは二人の着衣をぬがせた。
「あゝ、いゝとも。どうせこれからは長い夏がくらあ。こんなものは邪魔つけだ。綺麗サッパリ持つて行つてくれ。アヽ、いゝ気持だ。ナニ、もうないよ、あとは身体ばかりだ。エ、靴か、うむ、なるほど」
 古典芸術の舞台で仕上げた女の魂もヨタ者に対しては論外で、色を失ひ、唇から全身へかけてブル/\ふるへながら着物をぬいでゐる。
 二人の身体だけが無事残された。
 然しアルコールの蒸気に魂の中味までむしたゞれてゐる夏川は、裸の方が涼しくてよかつた。彼はヨタ者と握手をして、手をふつて別れると、忽ち快い睡気を催して、物蔭を幸ひ、その場へグタ/\、ヒロシの切なる懇願もあらばこそ、前後不覚にねむつてしまつた。
 ふと目が覚めると、彼の全身は臓腑まで冷え、重く節々の軋むやうな疼痛が全身にしがみついてゐるのである。たゞ喉だけが焼けたゞれて自然に口をアングリあけてフイゴのやうな風を吹いたり入れたりしてゐる。驚いて見廻すと、やはらかく、あたゝかいものが手にふれた。ヒロシであつた。
 ヒロシは彼の背にピッタリと坐つてゐた。端然と、まさしく端然と坐してゐるのであらうけれども、端然などと人が云ふのは着物あつてのことで、フンドシ一つの端然といふ姿はない。然るべき着物を然るべく着こなして、日頃くづれといふものを露ほども見せたことのない身だしなみの格別の色若衆であつた。その姿の麗しくみづみづしいのは、女のやうななで肩で、細々と痩せ身のせゐであつたらうが、フンドシ一つではとんと河鹿《かじか》が思案にくれてゐるやうで、亡者が墓から出てきたばかりのやうに土の上にションボリ坐つてゐる。
 夏川は目がさめて、慌てゝ身体を起すと、先づ、つゞけさまに、七ツ八ツ嚔《くしやみ》をしたものだ。すると忽ちそれに応ずる響の如くにヒロシが嚔を始めたが、七ツ八ツどころか、十五、十六となり、二十、二十一となつても、まだ口をあけてハアハアしてゐる。あげくに五寸もある洟水《はなみず》がぶらりぶらりと垂れてきたのを、手でつらゝをもぐやうに握りしめたが、こゝまできては古典芸術の修練も如何とも施す術がないやうだ。
「ヒロさん。風をひいたやうぢやないか」
「えゝ、ナアさん」
 ヒロシは蚊の鳴くやうな声をふりしぼつて答へた。
「いかゞですか。お身体にさはりやしませんでしたか」
「私もいくらか風をひいたかも知れない。それにしても、私たちは、どうしてハダカなんだらう?」
「あら、ナアさん。あまりですわよ。御存知ないのですか」
「いや、なるほど。あゝさう/\。なるほどね、思ひだしたよ」
 さすがに夏川も腕を組んで(なに寒くて、腕を組まずにゐられないのだ)千丈の嘆息をもらしたものだ。昔から裸で道中はできないといふ。いくら焼跡の浮浪児でも、シャツぐらゐは着てゐるだらう。どうしても家へ帰らねばならなくなつてしまつたのである。母の待つ家へ。ところで、そのときにヒロシがかう言つたものだ。
「ナアさん。お恨みは致しません。運命ですわねえ。あたくし、かうして、おそばに坐つてゐるだけで、しあはせですのよ」
 かうして夏川は母の待つ家へ裸で帰つて行つた。まことに星のめぐり合せといふものは仕方がない。作者がいかほど深刻な悲劇をのぞんだところで、事実の方が、かうしてトンチンカンにめぐつて行くのだから仕方がない。
 あひにくのことに、母はまだ寝もやらず起きてゐたものだ。障子にその
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