か」
「でも、ナアさん。差し当つて、行くところが」
「だからさ。今夜は浮浪児だよ。ともかく一杯、のみたいね」
「えゝ、ですから、御酒《ゴシュ》はあたくしの心当りの家で」
「いゝよ、いゝよ。酒ぐらゐはどこででも飲めるのだから」
ヒロシは夏川の当面してゐる母の上京のことに就ては問題にしてゐないのだ。たゞキッカケをつかんだだけだ。彼の関心はオコノミ焼の主婦なので、夏川を主筋の知らない家へ移させ、自然に手を切らせようといふ算段だ。然し夏川もヒロシの身勝手な指金を怒る気持にもなれないので、オコノミ焼の主婦とていよく縁を切りうるなら、これも亦、いつによらず彼にとつては魅力ある事柄だからである。
母と子の関係はオモチャのやうなたわいもないものである。老いては子に教はるとイロハガルタの文句の通り、子が自立すると母は子供の子のやうな動物になりたがる。然し不肖の子供にとつて母がいつまでも母であるのが夏川には切ない。世の常の道にそむいた生活をしてゐると、いつまでたつても心の母が死なないもので、それはもう実の母とは姿が違つてゐるのであるが、苦しみにつけ、悲しみにつけ、なべて思ひが自分に帰るその底に母の姿がゐるのである。切なさ、といふ母がゐる。苦しみ、といふふるさとがある。
夏川の母はもう七十をすぎた年だが、田舎の武士の堅苦しい躾の中で育つた人で、中学時代の夏川は漢文の復習予習を母についてやらされたものだ。食事に膝をくづしてもたしなめられる厳格な母であつたが、それほどの母であつても、母といふ動物であることを免れない。不肖の子は特に可愛いといふ通り、迷惑をかけるたびにいつも負けるのは母親で、それがわが子の宿命ならば、善悪は措《お》き、同じ宿命を共にしたいと考へる。
子供の頃は怖しい母であつたし、今も尚、怖れの外には母を思ひだすことのない夏川であつたが、それは彼の心に棲む母のことだ。現実の母は、叱る声も、怒る眼も在る代りには、だますこともでき、言ひくるめることもできる。ひどく云へば、悪事の加担をすゝめることもできるほど、子のために愚直な動物的な女であつた。
何事によらず、概ね人の怖れることは、ある極めて動物的な一瞬時なのである。死の如きものでも、さうである。そして夏川が母の上京に就て怖れることも、実は単に一瞬時で、怒る眼も、叱る声も、長く続いて変らぬといふ性質のものではない。だますことも、言ひくるめることもでき、会はない前よりも却つて事態を好転させる見込みすら有り得るのである。
心の中に住む母はさうはいかない。苦しみにつけ、悲しみにつけ、自らが己れを責める切なさの底で見る母は、だますことも、ごまかすこともできない母だ。母はそれだけでいゝではないか。夜汽車に喘いで辿りついた白髪頭の腰の曲つた老婆の姿をなんで見なければならないのか。その一徹な怒る心や叱る声をなんできかねばならぬのか。それを手もなく、だまして、言ひくるめて、砂をかむやうな不快な思ひをなぜしなければならぬのか。
だが、生来小心者の夏川は、別して母に就ては小心だつた。母に会ふその一瞬時が何よりも辛いやうに思はれる。四十の彼の心の中に今なほなまなましくうづく苦痛は七ツの彼とすこしも違はぬ。胸にあふれでる想念は子供の頃母に叱られたその怖しさばかり、七ツの恐怖をどうすることもできないのである。
「ヒロさん。君はおふくろが生きてゐるのかい」
「いゝえ。あたくしは木の股から生れましたのです」
ヒロシは冷然と言つた。
その晩、夏川は例の親友の蒲鉾小屋のオデン屋を叩いて徹底的に飲んだものだ。尤も彼が徹底的に飲むのはこの日には限らないので、母の幻を洗ひ流すに特別多量のアルコールが入用だといふわけではない。親友のオデン屋がつまりこの日は同情ストライキといふ奴で、一緒に飲みはじめて夏川以上にメートルをあげてしまつたから、をさまりがつかなくなつただけのことだ。
このオデン屋は生国では草相撲の大関で、今もつて多少ドン・キホーテの気性があるほどだから、血気の頃は特別だ。天下の横綱にならうといふ大志をかためて、村の有志から餞別を貰ひ、両国をさして乗りこんだものだ。首尾よく入門は許されたが、本職の怪力は論外で、頭もろとも突きかゝると岩にぶつかる如くはね返され、関取が片腕ふつたばかりで腰にしがみついてゐる彼の身体がコマの如くに宙にクルクルと廻つてフッ飛ばされてしまふ。右手をふれば左へ、左手をふれば右へ、縦横無尽にはね飛ばされたり、土の中へめりこまされたり、たつた一日の稽古でつくづく天下の広大無辺なることを悟つたものだ。居ること正味二日となにがしの時間で、機を見はからひ、荷物をひつかづいて逃げだした。ともかく荷物をひつかづいて走るぐらゐの人並こえた力ぐらゐは有るのである。今もつて二十四五貫の肥大漢で、酒を飲みだす
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