も、言ひくるめることもでき、会はない前よりも却つて事態を好転させる見込みすら有り得るのである。
 心の中に住む母はさうはいかない。苦しみにつけ、悲しみにつけ、自らが己れを責める切なさの底で見る母は、だますことも、ごまかすこともできない母だ。母はそれだけでいゝではないか。夜汽車に喘いで辿りついた白髪頭の腰の曲つた老婆の姿をなんで見なければならないのか。その一徹な怒る心や叱る声をなんできかねばならぬのか。それを手もなく、だまして、言ひくるめて、砂をかむやうな不快な思ひをなぜしなければならぬのか。
 だが、生来小心者の夏川は、別して母に就ては小心だつた。母に会ふその一瞬時が何よりも辛いやうに思はれる。四十の彼の心の中に今なほなまなましくうづく苦痛は七ツの彼とすこしも違はぬ。胸にあふれでる想念は子供の頃母に叱られたその怖しさばかり、七ツの恐怖をどうすることもできないのである。
「ヒロさん。君はおふくろが生きてゐるのかい」
「いゝえ。あたくしは木の股から生れましたのです」
 ヒロシは冷然と言つた。
 その晩、夏川は例の親友の蒲鉾小屋のオデン屋を叩いて徹底的に飲んだものだ。尤も彼が徹底的に飲むのはこの日には限らないので、母の幻を洗ひ流すに特別多量のアルコールが入用だといふわけではない。親友のオデン屋がつまりこの日は同情ストライキといふ奴で、一緒に飲みはじめて夏川以上にメートルをあげてしまつたから、をさまりがつかなくなつただけのことだ。
 このオデン屋は生国では草相撲の大関で、今もつて多少ドン・キホーテの気性があるほどだから、血気の頃は特別だ。天下の横綱にならうといふ大志をかためて、村の有志から餞別を貰ひ、両国をさして乗りこんだものだ。首尾よく入門は許されたが、本職の怪力は論外で、頭もろとも突きかゝると岩にぶつかる如くはね返され、関取が片腕ふつたばかりで腰にしがみついてゐる彼の身体がコマの如くに宙にクルクルと廻つてフッ飛ばされてしまふ。右手をふれば左へ、左手をふれば右へ、縦横無尽にはね飛ばされたり、土の中へめりこまされたり、たつた一日の稽古でつくづく天下の広大無辺なることを悟つたものだ。居ること正味二日となにがしの時間で、機を見はからひ、荷物をひつかづいて逃げだした。ともかく荷物をひつかづいて走るぐらゐの人並こえた力ぐらゐは有るのである。今もつて二十四五貫の肥大漢で、酒を飲みだす
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