母の上京
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お午《ひる》すぎ

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぶら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 母親の執念はすさまじいものだと夏川は思つた。敗戦のどさくさ以来、夏川はわざと故郷との音信を断つてゐる。故郷の知り人に会ふこともなく、親しい人にも今の住所はなるべく明さぬやうにしてゐるのだが、どういふ風の便りを嗅ぎわけて、母がたうとう自分の住居を突きとめたのだか、母の一念を考へて、ゾッとするほどの気持であつた。
 夏川が都電を降りると、ヒロシが近づいてきて、ナアさん、お帰りなさいまし、と言ふ。そして、お午《ひる》すぎるころから母がきて夏川の部屋にゐることを知らされたのである。ヒロシはかういふことにかけては気転がきくので、夏川が何も知らずに戻つてきては具合の悪いこともあるだらうと、もう二時間も彼の帰りを待つてゐた。さういふ親切に、ヒロシは然し恬淡《てんたん》で、第一、二時間も待ちかまへたことを話すにも、いつもと変らぬ調子であつた。
「どうなさいますか、ナアさん。このまゝウチへおかへり?」
 ヒロシは夏川の顔をちらと見た。その目には、はじめていくらかの厳しい気配があつた。ヒロシの報せの言葉が穏やかなせゐか激動は覚えなかつたが、夏川の心は顛倒して、とつさに目当もつかないやうだ。穏やかだが、突きつめたヒロシの意志がその中へ食ひこむやうであつた。
「外へ泊るといつても、今日は、それほどの持ち合せもないのでね」
「そんなこと、かまやしませんわよ」
「さうかい。上野も近いしね。浮浪児の仲間入りをするか」
 浮浪児の仲間入りといふよりも、ヒロシの仲間入りと言ひかけるところであつた。初夏の夕風が爽やかだ。そして薄明がねつとりしてゐた。
 ヒロシは女の言葉を使ふが、男であつた。然し心はまつたく女だ。歌舞伎の下ッ端で、オヤマの修業をしてゐたのだが、戦争中から食へなくなつて、オコノミ焼の居候をしてゐた。焼けだされて、オコノミ焼の家族と共に、夏川の隣室に住んでゐた。夜になると淫売に出て行くらしい話であつたが、元々歌舞伎の下ッ端の頃から幇間《ほうかん》なみにお座敷へでて遊客の玩弄物に育つてきた。けれども同じお座敷育ちの芸者たちが日増しに荒れ果てた心に落ちるのに比べれ
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