たのだが、それは三泊旅行で、田舎者がはじめて謡曲を覚えるためにはかなり時間が足りなかった。したがって彼の「鉢の木」は世間の謡曲と似た部分が少なかったが、シサイにギンミしてきくと義太夫よりはやや謡曲に似ており、また浪花節よりもやや謡曲に似ているように思われる部分があった。三吉はたまりかねて云った。
「その声をきくとウチの者が病気になるからやめてもらいたい」
「それは気の毒だが、下駄をぬぐまでは天下の公道だから誰に気兼もいるまい」
 下駄をぬぎ終るまで謡いつづけて保久呂湯へあがりこむのである。それ以来、中平が到着すると三吉は奥へ立って彼が立ち去るまで姿を見せなかった。その晩もそうである。

 その晩、保久呂湯には六太郎が彼の到着を待っていた。このところズッと将棋に負けがつづいているからだ。毎晩二局という約束である。その晩は六太郎が二局ともに勝った。中平は負けると不キゲンになるタチである。その場に居たたまらない。つれてきた孫娘の姿が見えないから、
「お菊は風呂だな。オレモ一風呂あびよう」
 と、急いで湯殿へとびこんだ。湯殿はひろい。その中央に一間半に三間の石造りの水槽があって霊泉がコンコンと
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