が般若湯《はんにゃとう》をのむというのは落語や小咄《こばなし》に馴染《なじみ》のことだが、あれは大概山寺のお経もろくに知らないような生臭坊主で、何代目かの管長候補に目されている高僧は流石《さすが》に違う。却々《なかなか》もって、八さん熊さんと同列に落語の中の人物になるような頓間《とんま》な飲み方はしないのである。
ここでも言いもらしてはならないことは、先ず、第一に、温顔であった。この世に顔の数ある中で、温顔の中の温顔である。常に適度の微笑をふくみ、陽春の軟風をみなぎらし、悠々として、自在である。声はあくまでやわらかく、酔にまぎれて多少の高声を発するようなことすらもない。洒脱《しゃだつ》な応待で女中をからかい、龍海さんと按吉にさかんに飲ませて、自分は人につがれなければ強いて飲むということがなかった。
さて、ここをでて、何代目かの管長候補は二人の青道心をひきつれて、待合という門をくぐった。
思うに何代目かの管長候補は、二人の青道心が、酔わないうちから女を論じ、酔えば益々女を論じ、徹頭徹尾女を論じて悟らざること夥《おびただ》しい浅間しさをあわれみ、惻隠《そくいん》の心を催したのに相違な
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