のうち失礼と仰有って廊下へ出ていらっしゃる。屁をたれて、なんとなく廊下を五六ぺん往復なすって、また失礼と仰有って、辞書を抱えて激しい運動をなさる。やっぱり単語が現れない。
 そのうち按吉はチベット語の辞典といえば学者の健康のために作られたものではないかという風に考えていて、一分や二分で単語を探しだしてしまうのはチベット語本来の性質にそむくものだという風に思っていたから、先生の激しい運動に対しても決して先生がお出来にならないせいだなどと思うことはなかったが、然し先生が失礼と仰有って廊下へ出ていらっしゃる。なんとなく廊下を五六ぺん往復なすって、また失礼と仰有って戻っていらっしゃる。その先生の礼節がしみじみといたわしく、大変|佗《わび》しくてならないのだった。そこで按吉は或る日言った。
「先生、放屁は僕に遠慮なさることは御無用に願います。却《かえっ》て僕がつらいですから」
 すると先生はその次放屁にお立ちのとき障子を開けようとして手をかけてから按吉の言葉を思い出されたのであろう、それではと仰有って振向いて、障子に尻を向けておいていつもの通り七ツ八ツお洩らしになった。そうして、その後はこの方法が習慣になったのである。ところがここに意外なことに、按吉は従来の定説を一気にくつがえす発見をした。これに就いては物識りの風来山人まで知ったか振りの断定を下しているほどであるが、大きな円々と響く屁は臭くないという古来の定説があるのである。ところが先生の屁ときたら、音は朗々たるものではあるが、スカンクも悶絶するほど臭いのである。即ち先生がなんとなく廊下を往復なすっていらっしゃったのは、蓋《けだ》し自ら充分に御存じのところであったのだろう。学問の精神は高邁《こうまい》なものであるけれども、ここに於て按吉は、チベット語の臭気に就いて悲痛な認識をもたなければならないのだった。その頃の按吉の日記の中の文章である。
[#ここから2字下げ]
外は晴れたる日なりき
今日も亦《また》チベット語を吸いて帰れり
[#ここで字下げ終わり]
 この二行詩はいくらか厭世的である。先生の放屁にあてられて、彼は到頭《とうとう》思わぬ厭世感にかりたてられていたらしい。按吉はこの二行詩が出来上るまで詩というものを作ったことがなかったのである。ところが彼はこの時|俄《にわ》かにこの世には散文によっては表明しきれない何物かが在ることを痛切に知ったのである。即ちチベット語と屁の交るところの結果の如き、これは散文の能力によっては如何《いかん》とも表明することが不可能ではないか。こうして彼は意外にもチベット語と屁の交るところの結果から詩の精神を知り、また厭世の深淵をのぞいた。人間は、どこで、何事を学びとるかまことに予測のつかないものだ。
 この伝授がもう一年間もつづいたら按吉は厭世自殺をしなければならないような結果になったかも知れなかった。ところが、ここに天祐神助《てんゆうしんじょ》あり、按吉は一命をひろったのである。
 天祐神助は先生が童貞を失ったことに始まる。先生は花の巴里《パリ》に於てすら童貞を失わず、マレーの裸女にも目を閉じて、堂々童貞を一貫し無事故国へ辿《たど》りついてきたのに、こともあろうに凡《およ》そ安直な売春婦を相手にして、三十数年の童貞をあっさり帳消しにした。
 その結果、次のような理由によって、先生はまったく厭世的になったのである。即ち先生は按吉に言った。
「なんだ君。交接というものは実にあっけないものじゃないか。快感なんか、どこにあるのだ。君、そうじゃないか。馬鹿にしてやがる。僕は君、あの時だけは、世界中の言葉という言葉が総がかりになっても表現しきれない神秘な感覚があるのだと思いこんでいたんだぜ。僕は君、一生だまされていたようなものだ。僕はもう、つくづく都会の生活がいやになったな。くにへ帰って、暫《しばら》くひとりで考えてくる」
 先生自体が神秘すぎて、按吉には、先生の厭世の筋道や内容がどうもはっきり呑みこめなかった。世界中の言葉という言葉が総がかりになっても表現しきれない神秘な感覚というものをどうして三十何年も我慢していらっしゃったのか分らないし、その予想が外れたからといってどうして故郷へ帰らなければならないのかてんでわけが分らない。一生だまされていたなどと大変なことを言って嘆いていらっしゃるが、誰がどういう風に騙《だま》していたのだか一向わけが分らない。先生がこんな大変なことを言って嘆いているのをきいていると、先生が言葉という言葉をみんな覚えようとしたのは、つまりそれを総がかりにしても表現しきれないようなことを、実はどこかに表現されているのだと感違いしてせっせと勉強していたようにも思われるし、三十何年も童貞を守っていたくせに、実のところは先生年中そのことばかり考え耽《
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