心とか、そういうものを感じる前に、いきなり肉体を感じてしまう。この世には温顔という言葉があるが、その実際が知りたかったら、高僧にお会いするのが第一である。即ち、肉体は常に温顔をたたえ、さながら春の風、梅花咲くあのやわらかな春風をたたえていらっしゃる。そうして、お別れしてしまうまで、肉体の温顔が、ただ、目の前いっぱいに立ちふさがっているのである。そうして、肉体の温顔が、ニコニコと、きさくに語って下さるのである。ナニ、美女もただの白骨でな、と、肉体の温顔がニコニコと仰有る。又、あるときは、これを逆に、イヤ、ナニ、美女のやわらかい肉感というものは、あれも亦よろしいものじゃヨ、と、こう仰有って大変無邪気にたのしそうにニコニコとお笑いになり、あれにふれるとホンマに長生きするのでのう、と仰有るのである。
これと同じ意味のことは長屋の八さんが年中喋っているのであった。けれども、長屋の八さんはてんで悟りをひらかないから、八さんがこんなことを喋る時のだらしない目尻といったら洵《まこと》に言語道断である。実にだらしなく相好《そうごう》くずしてヘッヘッヘとおでこを叩き、忽《たちま》ち膝を組み直したりするけれども、八さんの話をきいていると、八さんの肉体などはてんで意識にのぼらない。こっちも忽ちニヤニヤして八さん以上に相好くずして坐りなおしてしまうのである。どうも悟りをひらかないてあいというものは仕方がない。夜の白むのも忘れて喋り、翌日は、酒ものまずに、ふつかよいにかかっている。
ところが高僧のお言葉ときては、そういう具合にいかないのである。こっちも忽ちニヤニヤして、てもなく同感してしまうという具合にいかない。お言葉と同時に、先ず何よりも高僧の肉体が、肉体の温顔が、のっしのっしと按吉の頭の中へのりこんできて、脳味噌を掻きわけてあぐらをかいてしまうのだ。按吉は、思わず目を掩《おお》う気持になる。悟りのむらだつ毒気に打たれた。時には瞬間慄然とした。
そのころ栗栖按吉に、ひとりの親友ができていた。龍海さんと云って、素性の正しい坊主であったが、まだ高僧ではなかったから、痩せ衰えた肉体をもち、高僧なみに至ってよく女に就て論じたけれども、てんで悟りに縁がないから、肉体の温顔などは微塵《みじん》もなかった。
龍海さんは坊主の学校で坊主の勉強しなければならない筈であったけれども、坊主の足を洗いたい
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