ることを痛切に知ったのである。即ちチベット語と屁の交るところの結果の如き、これは散文の能力によっては如何《いかん》とも表明することが不可能ではないか。こうして彼は意外にもチベット語と屁の交るところの結果から詩の精神を知り、また厭世の深淵をのぞいた。人間は、どこで、何事を学びとるかまことに予測のつかないものだ。
この伝授がもう一年間もつづいたら按吉は厭世自殺をしなければならないような結果になったかも知れなかった。ところが、ここに天祐神助《てんゆうしんじょ》あり、按吉は一命をひろったのである。
天祐神助は先生が童貞を失ったことに始まる。先生は花の巴里《パリ》に於てすら童貞を失わず、マレーの裸女にも目を閉じて、堂々童貞を一貫し無事故国へ辿《たど》りついてきたのに、こともあろうに凡《およ》そ安直な売春婦を相手にして、三十数年の童貞をあっさり帳消しにした。
その結果、次のような理由によって、先生はまったく厭世的になったのである。即ち先生は按吉に言った。
「なんだ君。交接というものは実にあっけないものじゃないか。快感なんか、どこにあるのだ。君、そうじゃないか。馬鹿にしてやがる。僕は君、あの時だけは、世界中の言葉という言葉が総がかりになっても表現しきれない神秘な感覚があるのだと思いこんでいたんだぜ。僕は君、一生だまされていたようなものだ。僕はもう、つくづく都会の生活がいやになったな。くにへ帰って、暫《しばら》くひとりで考えてくる」
先生自体が神秘すぎて、按吉には、先生の厭世の筋道や内容がどうもはっきり呑みこめなかった。世界中の言葉という言葉が総がかりになっても表現しきれない神秘な感覚というものをどうして三十何年も我慢していらっしゃったのか分らないし、その予想が外れたからといってどうして故郷へ帰らなければならないのかてんでわけが分らない。一生だまされていたなどと大変なことを言って嘆いていらっしゃるが、誰がどういう風に騙《だま》していたのだか一向わけが分らない。先生がこんな大変なことを言って嘆いているのをきいていると、先生が言葉という言葉をみんな覚えようとしたのは、つまりそれを総がかりにしても表現しきれないようなことを、実はどこかに表現されているのだと感違いしてせっせと勉強していたようにも思われるし、三十何年も童貞を守っていたくせに、実のところは先生年中そのことばかり考え耽《
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