うとすると、ここでも却つてその真実らしさを失ふことになるであらう。
ドストイェフスキーの作品では、多くの動きが、その聯絡が甚だ不鮮明不正確で、多分に分裂的であり、それらの雑多な並立的な事情が極めてディアレクティクマンに累積され、或ひはディアレクティクなモンターヂュを重ねて、甚だしく強烈な真実感をだしてゐる。組織的に組み立てやうとするよりも、むしろ意識的に分裂的散乱的に配合せんとすることを狙つてゐて、いはば彼にあつては、分裂的に配合することが、結果に於て組織的綜合的な総和を生みだすことになつてゐる。さうして徒《いたず》らに組織立てやうとしないために、無理にする聯絡のカラクリがなく、労せずして(実は労してゐるのであらうが、文章に表はれた表面では――)強烈な迫力をもつ真実らしさを我物としてゐる。この手法は私の大いに学びたいと思ふところのものである。
脈絡のない人物や事件を持ち来つて棄石のやうに置きすてて行く、さういふことも意識的に分裂的配分を行ふ際に必要な方法であらうし、探したならば、そのための色々都合のいい、効果的な、面白い手法を見付けだすこともできると思ふ。要するに、事件と事件が各々分裂的で、強ひてする組織的脈絡がないといふことは、一章句が断定的でなく強ひて曖昧であることの効果と同じ理由で、それ自体が真実そのものであることを表面の武器としない代りに、真実を掴み損ねた手違ひは犯してゐないといふそれ自らとしては消極的な効能ながら、それによつて読者の神経に素直に受け入れられることができ、つづいて斯様に分裂的な数個の事情を累積することによつて、積極的な真迫力も強め得て、言葉以上に強力な作者の意志を伝へることもできやうと思ふのである。
蛇足ながら最後に一言つけ加へておくと、私は「真実らしさ」の「らしさ」に最も多くの期待をつなぐものであつて、それ自体として真実である世界は、それがすでに一つの停止であり終りであることからも、興味がもてない。「らしさ」はあらゆる可能であり、かつ又最も便宜的な世界である。芸術としては最も低俗な約束の世界であらうが、然しともかくここまでは芸術として許されうる世界であつて、従つて最も広く、暢達な歩みを運ぶこともできるのである。表面の形は低俗であつても、最も暢達の世界であるために、結果に於て最も低俗ならざる深さ高さ大いさに達することができるのだ。左様な考へから、今日の神経に許されうる最も便宜的な世界に於て、真実らしき文章の形式を考案したいと考へてゐるのである。
[#地付き](八月一日、信濃山中にて)
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第六巻第九号」
1935(昭和10)年9月1日発行
初出:「作品 第六巻第九号」
1935(昭和10)年9月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
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