ころで、日本の小説では、限りもなく恋愛小説もあらうと思ふが、何人がこれに匹敵しうる恋の言葉を書いたであらう? 無論内攻した生活をくらしがちな日本人は――別してわが光輝ある日本帝国の憂鬱なる作家ともなれば、こんな気のきいた言葉を現実に用ひて恋を語らうことなぞ夢にも有り得やう筈はない。併しそのことは西洋でも言ひ得るのではなからうか。ヂュリエットは十四歳未満の娘の筈だが、西洋の娘がいかほど早熟《マセ》てゐるにしても、よしんば恋がミネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の神力を与へたにしても、十三や十四の娘に斯んな気のきいた、綺麗な、そして胸をつく言葉がペラ/\と喋りまくられやうとは思へない。併し芸術の中に於て、このことは有りうるのである。さうして、それあるが故に、それが芸術とも呼ばれる一つの理由となるのである。私は、レアリスムといふものは、当然この種の飛躍した表現をもつて然るべきだと思ふ。
 さらに、名文の典型的な見本を見たいならシーザアの為になされたアントニオ(といふ名前だつたかしらん――)の真情切々たる演説を見られるがいい。諸兄先刻御承知の事と思ふし、少々長いので引用は差し控えるが、あれを読めば羅馬《ローマ》の市民ならずともシーザアの死に泪を流し、ブルタスに怒りを燃さずにゐられない。私なぞ出来損ひのロマンチックな性癖が祟つて思はず、ホロリとしたことであつた。
 これはジイドの言葉だが、小説家が己れを知らうとすることは甚だ危険なことである、と。なぜなら、もしも小説家が己れを見出したなら、彼は全ての観察に己れを模倣することになつてしまふ。そして自分の通路と限界を知つた以上は、それを越すことができなくなるだらう、といふのである。真の芸術家は彼が制作するときには常に半ば自分自身のことには無意識である。彼はただ彼の作品を通してのみ、作品に依つてのみ、作品の後に於てのみ、己れを知るやうになるのである、と。
 これはホントにさうだと私は思つた。すくなくとも私のやうな頼りない人間は、自分の作品のあとでのみ、漸く自分の生活が固定する、或ひは形態化する、といふ感が強い。尤も私は自分自身のことを決して直接描こうとしない男であるが、それにも拘らず、私は作品を書くことによつて、漸くそこに描かれた事実が私自身の生活として固定し、或ひは形態をとつたのだといふ感が強いのである。私にとつて、描かれ
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