かれ少かれ常に経験してゐることに相違ない。
私は思つた。想念は電光の如く流れてゐる。又、私達が物を読むにも、走るが如く読むことができる。ただ書くことが遅いのである。書く能力が遅速なのではなく、書く方法が速力的でないのである。
もしも私の筆力が走るが如き速力を持ち、想念を渋滞なく捉へることができたなら、どうだらう。私は私の想念をそのまゝ文章として表はすことが出来るのである。もとよりそれは完成された文章では有り得ないけれども、その草稿を手掛《てがかり》として、観念を反復推敲することができ、育て、整理することが出来る。即ち、私達は文章を推敲するのではなく、専一に観念を推敲し、育て、整理してゐるのである。文章の本来は、ここにあるべき筈なのだ。
けれども私達の用ひる文字は、想念の走り流れるに比べて、余りにも非速力的なものなのである。第一に筆記の方法が速力に反逆してゐる。即ち右手の運動は左から右へ横に走るのが自然であるのに、私達の原稿は右から左へ書かねばならぬ。且その上に、上から下へ書かねばならぬ。
然し一字づゝの文字から言へば、漢字も仮名も、右手の運動の原則通り、左から右へ横に走つてゐる
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