文字と速力と文学
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)消え去《う》せたり

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たど/\しく
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 私はいつか眼鏡をこはしたことがあつた。生憎眼鏡を買ふ金がなかつたのに、机に向かはなければならない仕事があつた。
 顔を紙のすぐ近くまで下げて行くと、成程書いた文字は見える。又、その上下左右の一団の文字だけは、そこだけ望遠鏡の中のやうに確かに見えるのである。けれどもさういふ状態では小説を書くことができない。さういふ人の不自由さを痛感させられたのであつた。
 つまり私は永年の習慣によつて、眼を紙から一定の距離に置き、今書いた字は言ふまでもなく、今迄書いた一聯の文章も一望のうちに視野にをさめることが出来る、さういふ状態にゐない限り観念を文字に変へて表はすことに難渋するといふことを覚らざるを得なかつた。愚かしい話ではあるが、私が経験した実際はさうであつた。
 私は眼を閉ぢて物を思ふことはできる。けれども眼を開けなければ物を書くことはできず、尚甚しいことには、現に書きつゝある一聯の文章が見えない限り、次の観念が文字の形にならないのである。観念は、いつでも、又必らず文字の形で表現なし得るかのやうに思はれるけれども、人間は万能の神ではなく優秀な機械ですらない。私は眼鏡をこはして、その不自由を痛感したが、眼鏡をかけてゐても、その不自由は尚去らない。
 私の頭に多彩な想念が逞しく生起し、構成され、それはすでに頭の中で文章の形にととのへられてゐる。私は机に向ふ。私はただ書く機械でさへあれば、想念は容易に紙上の文章となつて再現される筈なのである。が、実際はさう簡単には運んでくれない。
 私の想念は電光の如く流れ走つてゐるのに、私の書く文字はたど/\しく遅い。私が一字づゝ文字に突当つてゐるうちに、想念は停滞し、戸惑ひし、とみに生気を失つて、ある時は消え去《う》せたりする。また、文字のために限定されて、その逞しい流動力を喪失したり、全然別な方向へ動いたりする。かうして、私は想念の中で多彩な言葉や文章をもつてゐたにも拘らず、紙上ではその十分の一の幅しかない言葉や文章や、もどかしいほど意味のかけ離れた文章を持つことになる。
 この嘆息は文章を業とする人ばかりでなく、手紙や日記を書く人も、多かれ少かれ常に経験してゐることに相違ない。
 私は思つた。想念は電光の如く流れてゐる。又、私達が物を読むにも、走るが如く読むことができる。ただ書くことが遅いのである。書く能力が遅速なのではなく、書く方法が速力的でないのである。
 もしも私の筆力が走るが如き速力を持ち、想念を渋滞なく捉へることができたなら、どうだらう。私は私の想念をそのまゝ文章として表はすことが出来るのである。もとよりそれは完成された文章では有り得ないけれども、その草稿を手掛《てがかり》として、観念を反復推敲することができ、育て、整理することが出来る。即ち、私達は文章を推敲するのではなく、専一に観念を推敲し、育て、整理してゐるのである。文章の本来は、ここにあるべき筈なのだ。
 けれども私達の用ひる文字は、想念の走り流れるに比べて、余りにも非速力的なものなのである。第一に筆記の方法が速力に反逆してゐる。即ち右手の運動は左から右へ横に走るのが自然であるのに、私達の原稿は右から左へ書かねばならぬ。且その上に、上から下へ書かねばならぬ。
 然し一字づゝの文字から言へば、漢字も仮名も、右手の運動の原則通り、左から右へ横に走つてゐるのである。「私」といふ漢字は左の禾から右の厶を書き、「ワタクシ」も右から左へ走つてゐるのだ。ただ書く方法が速力に反逆してゐる。即ち、私達は各々の文字を左から右へ書くにも拘らず、左へ左へと文字を書き走らせずに、各字毎に再び左へ戻つて来て右へ書き、又次の字は左へ戻るといふ風に凡そ速力や能率の逆のことに専念してゐる。
 作家にとつて、流れる想念を的確に書きとめることは先づ第一に重要である。私の友人達を見ても、各々他人に判読出来難い乱暴な字でノートをとつてゐるやうである。
 ドストイェフスキーが婦人速記者を雇ひ、やがてその人と結婚した話は名高い。伝記によれば、借金に追はれ、筆記の速力では間に合はなくなつて速記者を雇つたのだと言はれてゐるが、それも重要な理由ではあらうが、又ひとつには、さうすることが、彼の小説を損はず、むしろ有益であつたからに他ならないと思ひたいのだ。あの旺盛な観念の饒舌や、まはりくどくても的確な行き渡り方を読んでみると、筆記では、もつと整理が出来たにしても反面多くを逃したに相違なく、速記によつてのみ可能であつた効果を見出さずにはゐられない。
 私達は、自分で速記するよりも、他人
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