、私は、たとへば「私」とか「デアル」といふ様な頻に現れる言葉を一字の記号にした。「デアル」の未来形は記号の上へ点を打ち、過去形は下へ点を打つた。かうすると、文字の数が百字以上になるけれども、百字を覚える労力も結果に於ては速力的だと思つたのである。私は私のシステムだけはかなり合理的なつもりでゐたのであつたが、その効果を実績の上で実証するには私の根気が足らなかつたのだ。私はそれを作家精神や情熱の貧しさと結びつけて一途に羞ぢ悲しんだこともあつたが、持つて生れたランダの性は仕方がないと諦めて、今では恬然としてゐるのである。
 国際語としてのエスペラントのシステムに対しても、速力の原則から私は全く不服である。エスペラントはラテン語を基本としたものださうで、速力を基本として組み立てたものではない。若し真実の国際語が新らしく必要とすれば、単語の如きも旧来の何物をも摸してはならぬ。当然ただ簡明を第一として新らしく組織されねばならない筈だ。
 私は然し、このやうな言語や文字の(然し言語は余りに問題が大きすぎて話にならない。単に文字に限定して――新らたに文字の)改革が行はれると仮定して、それが今後の思想活動に及ぼす大きな効果を疑ふものではないけれども、差当つて私自身がその犠牲者にならなければならないといふ意味で、進んで支持する気持にはなれない。
 新しく改革されるべき文字に不馴れな私は、私の思想活動の能力を減退せしめねばならず、私の生活の重大な意味を犠牲にすることなしに生きることができないからだ。私はそのやうな犠牲者になることはどうしても厭で厭でたまらない。だから私は、決して文字改革の先棒を担がうなどとは夢にも考へてはゐないのである。ただ速記者が雇へたらと、時々思ふことがある。異常な苛立たしさやもどかしさの中で悪魔の呪文の如くにそれを念願することがあるのである。私の貧しい才能に限度はあつても、いくらかましにはなる筈だ。



底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
   1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文芸情報 第六巻第一〇号」
   1940(昭和15)年5月20日発行
初出:「文芸情報 第六巻第一〇号」
   1940(昭和15)年5月20日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
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