をして速記せしめる方が、より良く自らの想念の自由な動きを失はないに相違ない。
私は自分の身辺に、一人の速記者を置いてみたいと頻りに考へるやうになつた。けれどもその資力はなく、速記術を会得する資力すらなかつた。
一度私は、自分だけの速記法を編みだして、それを草稿にして小説を書いてみようと試みたことがあつた。けれども、これは失敗に終つた。或ひは私の情熱が足りなかつたのかも知れず、根気不足のせゐかも知れぬ。
すくなくとも、不馴れな文字では血肉がこもらなくて、自分の文字のやうには見えず、空々しくて、観念がそれについて伸びて行かないのであつた。丁度眼鏡をこはした場合と同じやうに、文字が見えなければ次の観念を育て走らせることが出来ず、速記の文字に文字としての実感がなければ観念の自由な流れを育て捉へることが出来ないのだつた。私達は平常文字を使駆してゐるかの如く思ふけれども、実際は、どれほど文字に束縛され、その自由さを不当に歪めてゐるか知れないやうな思ひがする。
結局私は、私の編みだした速記の文字に文字としての実感がこもるまでの修錬の時日を犠牲とするだけの根気がなかつた。
私は然し這般《しやはん》のうちに、速力を主とした文字改革といふことの文化問題としての重大さを痛感させられた気もした。
私達が日常使用してゐる文字は、文字がかくあらねばならぬ本来の意義、観念を速力的に、それ故的確に捕捉するといふ立場から作られたものではないのである。漢字は言ふに及ばず、西洋のアルファベットにしても、左から右へ走るといふ右手の運動の原則には合致しても、速力を原則として科学的に組織されたものではない。
日本語のローマ字化を云々する人々があるけれども、あれはをかしい。「ワタクシ」と四字で書き得る仮名を WATAKUSHI と九文字で書かねばならぬ愚かしさを考へれば、その無意味有害な立論であること、すでに明らかな話である。日本語の発声法では、アルファベットのやうに子音と母音を別々にして組み立てるのは煩瑣でしかない。仮名は四十八文字でアルファベットは二十六文字でも、単に文字を覚える時の四十八が二十六に対する労力の差と、「ワタクシ」を WATAKUSHI と四文字を九文字に一生書きつゞけねばならぬ労力の差とでは、余りにもその差が大きすぎるやうである。
私の徒労に帰した速記法の一端を御披露に及ぶと
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