でまんまと鬼にさらはれてしまふといふ対照の巧妙さや、暗夜の曠野を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途に走らうとして返事すらもできない――この美しい情景を持つてきて、男の悲嘆と結び合せる綾とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げてゐます。
 つまり、女を思ふ男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食はれるといふむごたらしさが生きるのだし、男と女の駈落のさまが美しくせまるものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であつたり、男の情熱がいゝ加減なものであれば、このむごたらしさは有り得ません。又、草の葉の露をさしてあれは何と女がきくけれども男は返事のひますらもないといふ一挿話がなけれは、この物語の値打の大半は消えるものと思はれます。
 つまり、たゞモラルがない、たゞ突き放す、といふことだけで簡単にこの凄然たる静かな美しさが生れるものではないでせう。たゞモラルがない、突き放すといふだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。さういふものではありません。
 この三つの物語が私達に伝へてくれる宝石の冷めたさのやうなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独、そのやうなものではないでせうか。
 この三つの物語には、どうにも、救ひやうがなく、慰めやうがありません。鬼瓦を見て泣いてゐる大名に、あなたの奥さんばかりぢやないのだからと言つて慰めても、石を空中に浮かさうとしてゐるやうに空しい努力にすぎないでせうし、又、皆さんの奥さんが美人であるにしても、そのためにこの狂言が理解できないといふ性質のものでもありません。
 それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身《うつしみ》は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。
 私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます。
 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だといふのではありません。否、私はむしろ、このやうな物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があらうとは思はれない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのやうに信じてゐます。



底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
   1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第四巻第六号」大観堂
   1941(昭和16)年7月28日発行
初出:「現代文学 第四巻第六号」大観堂
   1941(昭和16)年7月28日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
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