こと、それは文学として成立たないやうに思はれるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのやうでなければならぬ崖があつて、そこでは、モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ、と。
晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやつてくる農民作家――この人は自身が本当の水呑百姓の生活をしてゐる人なのですが、あるとき原稿を持つてきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であらうといふ考へで、生れた子供を殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまふといふ話が書いてありました。
芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になつたのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いつたい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶつきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言ひ、芥川があまりの事にぼんやりしてゐると、あんたは、悪いことだと思ふかね、と重ねてぶつきらぼうに質問しました。
芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されてゐるやうな多才な彼が、返事ができなかつたといふこと、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るやうに思はれます。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去つたのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたやうな気がしました。たつた一人、置き残されてしまつたやうな気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たさうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラ/\してゐたばかりだといふ話であります。
この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
こゝに、芥川が突き放されたものは、やつぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えてゐるといふ意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持つて来ても構はぬでせう。とにかく一つの話があつて、芥川の想像もできないやうな、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあつた。芥川は、その根の下りた生活に、突き放されたのでせう。いはゞ、彼自身の生活が、根が下りてゐないためであつたかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りてゐないにしても、根の下りた生活に突き放されたといふ事実自体は立派に根の下りた生活であります。
つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたといふ事柄のうちに芥川のすぐれた生活があつたのであります。
もし、作家といふものが、芥川の場合のやうに突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さつきの狂言のやうなものを創りだすことはできないでせう。
モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思ひません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性といふやうなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思ふものです。
もう一つ、もうすこし分り易い例として、伊勢物語の一つの話を引きませう。
昔、ある男が女に懸想して頻りに口説いてみるのですが、女がうんと言ひません。やうやく三年目に、それでは一緒になつてもいゝと女が言ふやうになつたので、男は飛びたつばかりに喜び、さつそく、駈落することになつて二人は都を逃げだしたのです。芥の渡しといふ所をすぎて野原へかゝつた頃には夜も更け、そのうへ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手をひいて野原を一散に駈けだしたのですが、稲妻にてらされた草の葉の露をみて、女は手をひかれて走りながら、あれはなに? と尋ねました。然し、男はあせつてゐて、返事をするひまもありません。やうやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛びこんで、女を押入の中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍をもつて押入れの前にがんばつてゐたのですが、それにも拘らず鬼が来て、押入の中の女を食べてしまつたのです。生憎そのとき、荒々しい雷が鳴りひゞいたので、女の悲鳴もきこえなかつたのでした。夜が明けて、男は始めて女がすでに鬼に殺されてしまつたことに気付いたのです。そこで、ぬばたまのなにかと人の問ひしとき露と答へてけなましものを――つまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答へて、一緒に消えてしまへばよかつた――といふ歌をよんで、泣いたといふ話です。
この物語には男が断腸の歌をよんで泣いたといふ感情の附加があつて、読者は突き放された思ひをせずに済むのですが、然し、これも、モラルを越えたところにある話のひとつではありませう。
この物語では、三年も口説いてやつと思ひがかなつたところ
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