い夜で、手さぐりでしか歩けない。手さぐりの速力では一町に一時間もかかるから、セッパつまった信二は思いきって四ツ這いになった。這う方がどれだけ確かで速いかわからない。七八丁の長距離を這い通して、ついに人家の明りに到着し、ここでチョーチンを借りて無事わが家へヤツ子を案内することができた。
 ヤツ子は信二の四ツ這いには呆れたが、ついに人家に到着した根気と勇気には感服した。チョーチンの明りでチラと見たところでは、両膝から血をたらしている様子である。妖しい呼びかけを発するので色キチガイかと思ったが、真ッ暗闇で悪いこともしないので、案外紳士だなと見直した。そこで信二の家に到着したときには、親しい家へついたようにホッとしたばかりでなく、明るい電燈の下で再見した信二には今までとは別人の親友のようななつかしさも感じたのである。
 ヤツ子はひどく虚無的だった。キャバレーでどこかの社長とのんで、どこかへ連れこまれたりした時なぞ虚無的だったが、そのニヒルにも人間の何かがあった。今日のニヒルには人間がない。バカバカしいのだ。芋のニヒルだ。全然カラッポである。
「ボクの母が一しょに食事したいそうですが」
「イヤよ。私ね。今夜はとてもお酒のみたいのよ。酔いたいわ。お母さんにナイショでね」
「それは分ってくれますよ。じゃア今夜は乾杯しましょう。うれしいですね」
 そして二人は飲んだのである。
「小森ヤツ子サン!」
 信二がまた妖しい呼びかけを発したときに、ヤツ子の応答は一変していた。
「エエ」
 とてもやさしい返事をして、色気が全身をくねらせたのである。

          ★

 翌朝、信二の家に青年団の幹部男女三十名が集って、文化祭決算が行われたのでヤツ子はつくづく呆れてしまった。
 各人分担の入場券五千枚のうち売れ残りが三千六百余枚。つまり千四百枚も売れているのである。幹部連、そのうち六割は自分のモウケにして四割提出と密約を結んできたフシがあった。ところが四割だした者は何人もいない。
「実にハヤ、料金の回収不良でして、今までに手もとに集ったのが、わずかに八枚ぶん。イヤハヤ、ザンキにたえません。実に諸氏の尊顔を拝するのも心苦しいのですが、これひとえに農村不況の致すところでありまして、流汗リンリ、ゴカンベン下さい」
 四十八枚売ったうち、たった八枚ぶん差しだした豪の者もいる。平均して三割に足ら
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