の内部にも居なかつたのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残つてゐるそのあわただしい跫音《あしおと》を耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞ひ狂ふのを見たのみであつた。
 諸君、偉大なる博士は風となつたのである。果して風となつたか? 然り、風となつたのである。何となればその姿が消え去《う》せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。諸氏は尚、この明白なる事実を疑るのであらうか? それは大変残念である。それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を附け加へやふ。この日、かの憎むべき蛸博士は、恰もこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青い馬 第二号」
   1931(昭和6)年6月1日
初出:「青い馬 第二号」
   1931(昭和6)年6月1日
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:砂場清
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