ただしい後悔と一緒に黄昏に似た沈黙がこの書斎に閉ぢ籠もるのを認められるに相違ない。順《したが》つて、このあわただしい風潮は、この部屋にある全ての物質を感化せしめずにはおかなかつたのである。たとへば、時計はいそがしく十三時を打ち、礼節正しい来客がもぢもぢして腰を下さうとしない時に椅子は劇しい癇癪を鳴らし、物体の描く陰影は突如太陽に向つて走り出すのである。全てこれらの狼狽は極めて直線的な突風を描いて交錯するために、部屋の中には何本もの飛ぶ矢に似た真空が閃光を散らして騒いでゐる習慣であつた。時には部屋の中央に一陣の竜巻が彼自身も亦周章てふためいて湧き起ることもあつたのである。その刹那偉大なる博士は屡々《しばしば》この竜巻に巻きこまれて、拳を振りながら忙がしく宙返りを打つのであつた。
 さて、事件の起つた日は、丁度偉大なる博士の結婚式に相当してゐた。花嫁は当年十七歳の大変美くしい少女であつた。偉大なる博士が彼の女に目をつけたのは流石に偉大なる見識と言はねばならない。何となればこの少女は、街頭に立つて花を売りながら、三日といふもの一本の花も売れなかつたにかかわらず、主として雲を眺め、時たまネオンサインを眺めたにすぎぬほど悲劇に対して無邪気であつた。偉大なる博士ならびに偉大なる博士等の描く旋風に対照して、これ程ふさわしい少女は稀にしか見当らないのである。僕はこの幸福な結婚式を祝福して牧師の役をつとめ、同時に食卓給仕人となる約束であつた。僕は僕の書斎に祭壇をつくり、花嫁と向き合せに端坐して偉大なる博士の来場を待ち構えてゐたのである。そのうちに夜が明け放たれたのである。流石に花嫁は驚くやうな軽率はしなかつたけれど、僕は内心穏かではなかつたのである。もしも偉大なる博士は間違へて外《ほか》の人に結婚を申し込んでゐるのかも知れない。そしてその時どんな恥をかいて、地球一面にあわただしい旋風を巻き起すかも知れないのである。僕は花嫁に理由を述べ、自動車をいそがせて恩師の書斎へ駈けつけた。そして僕は深く安心したのである。その時偉大なる博士は西南端の長椅子に埋もれて、飽くことなく一書を貪り読んでゐた。そして、今、東北端の肱掛椅子から移転したばかりに相違ない証拠には、一陣の突風が東北から西南にかけて目に泌《し》み渡る多くの矢を描きながら走つてゐたのである。
「先生約束の時間がすぎました」
 僕はなるべく偉大なる博士を脅かさないやうに、特に静粛なポオズをとつて口上を述べたのであるが、結果に於てそれは偉大なる博士を脅かすに充分であつた。なぜなら偉大なる博士は色は褪せてゐたけれど燕尾服を身にまとひ、そのうえへ膝頭にはシルクハットを載せて、大変立派なチューリップを胸のボタンにはさんでゐたからである。つまり偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念したに相違ない色々の条件を明示してゐた。
「POPOPO!」
 偉大なる博士はシルクハットを被り直したのである。そして数秒の間疑はしげに僕の顔を凝視めてゐたが、やがて失念してゐたものをありありと思ひ出した深い感動が表れたのであつた。
「TATATATATAH!」
 已にその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向ふ側に見失つてゐた。僕はびつくりして追跡したのである、そして奇蹟の起つたのは即ち丁度この瞬間であつた。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。
 諸君、開いた形跡のない戸口から、人間は絶対に出入しがたいものである。順つて偉大なる博士は外へ出なかつたに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にも居なかつたのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残つてゐるそのあわただしい跫音《あしおと》を耳にしながら、ただ一陣の突風が階段の下に舞ひ狂ふのを見たのみであつた。
 諸君、偉大なる博士は風となつたのである。果して風となつたか? 然り、風となつたのである。何となればその姿が消え去《う》せたではないか。姿見えざるは之即ち風である乎? 然り、之即ち風である。何となれば姿が見えないではない乎。これ風以外の何物でもあり得ない。風である。然り風である風である風である。諸氏は尚、この明白なる事実を疑るのであらうか? それは大変残念である。それでは僕は、さらに動かすべからざる科学的根拠を附け加へやふ。この日、かの憎むべき蛸博士は、恰もこの同じ瞬間に於て、インフルエンザに犯されたのである。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青い馬 第二号」
   1931(昭和6)年6月1日
初出:「青い馬 第二号」
   1931(昭和6)年6月1日
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:砂場清
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