、西班牙に至つてその消息を失ふたのである。然り、義経及びその一党はピレネエ山中最も気候の温順なる所に老後の隠栖を卜したのである。之即ちバスク開闢の歴史である。しかるに嗚乎、かの無礼なる蛸博士は不遜千万にも余の偉大なる業績に異論を説《とな》へたのである。彼は曰く、蒙古の欧洲侵略は成吉思可汗の後継者太宗の事蹟にかかり、成吉思可汗の死後十年の後に当る、と。実に何たる愚論浅識であらうか。失はれたる歴史に於て、単なる十年が何である乎! 実にこれ歴史の幽玄を冒涜するも甚しいではないか。
 さて諸君、彼の悪徳を列挙するは余の甚だ不本意とするところである。なんとなれば、その犯行は奇想天外にして識者の常識を肯んぜしめず、むしろ余に対して誣告の誹を発せしむる憾みあるからである。たとへば諸君、頃日余の戸口に Banana の皮を撒布し余の殺害を企てたのも彼の方寸に相違ない。愉快にも余は臀部及び肩胛骨《けんこうこつ》に軽微なる打撲傷を受けしのみにて脳震盪の被害を蒙るにはいたらなかつたのであるが、余の告訴に対し世人は挙げて余を罵倒したのである。諸君はよく余の悲しみを計りうるであらう乎。
 賢明にして正大なること太平洋の如き諸君よ、諸君はこの悲痛なる椿事をも黙殺するであらう乎。即ち彼は余の妻を寝取つたのである! 而して諸君、再び明敏なること触鬚《しょくしゅ》の如き諸君よ、余の妻は麗はしきこと高山植物の如く、実に単なる植物ではなかつたのである。ああ三度冷静なること扇風機の如き諸君よ、かの憎むべき蛸博士は何等の愛なくして余の妻を奪つたのである。何となれば諸君、ああ諸君永遠に蛸なる動物に戦慄せよ、即ち余の妻はバスク生れの女性であつた。彼の女は余の研究を助くること、疑ひもなく地の塩であつたのである。蛸博士はこの点に深く目をつけたのである。ああ、千慮の一失である。然り、千慮の一失である。余は不覚にも、蛸博士の禿頭なる事実を余の妻に教へておかなかつたのである。そしてそのために不幸なる彼の女はつひに蛸博士に籠絡せられたのである。
 ここに於てか諸君、余は奮然|蹶起《けっき》したのである。打倒蛸! 蛸博士を葬れ、然り、懲膺《ちょうよう》せよ憎むべき悪徳漢! 然り然り。故に余は日夜その方策を錬《ね》つたのである。諸君はすでに、正当なる攻撃は一つとして彼の詭計に敵し難い故以《ゆえん》を了解せられたに違ひない。而して今や、唯一策を地上に見出すのみである。然り、ただ一策である。故に余は深く決意をかため、鳥打帽に面体を隠してのち、夜陰に乗じて彼の邸宅に忍び入つたのである。長夜にわたつて余は、錠前に関する凡そあらゆる研究書を読破しておいたのである。そのために、余は空気の如く彼の寝室に侵入することができたのである。そして諸君、余は何のたわいもなくかの憎むべき鬘を余の掌中に収めたのである。諸君、目前に露出する無毛赤色の怪物を認めた時に、余は実に万感胸にせまり、溢れ出る涙を禁じ難かつたのである。諸君よ、翌日の夜明けを期して、かの憎むべき蛸はつひに蛸自体の正体を遺憾なく曝露するに至るであらう! 余は躍る胸に鬘をひそめて、再び影の如く忍び出たのである。
 しかるに諸君、ああ諸君、おお諸君。余は敗北したのである。悪略神の如しとは之か、ああ蛸は曲者の中の曲者である。誰かよく彼の神謀遠慮を予測しうるであらう乎。翌日彼の禿頭は再び鬘に隠されてゐたのである。実に諸君、彼は秘かに別の鬘を貯蔵してゐたのである。余は負けたり矣。刀折れ矢尽きたり矣。余の力を以つてして、彼の悪略に及ばざることすでに明白なり矣。諸氏よ、誰人かよく蛸を懲す勇士はなきや。蛸博士を葬れ! 彼を平和なる地上より抹殺せよ! 諸君は正義を愛さざる乎! ああ止むを得ん次第である。しからば余の方より消え去ることにきめた。ああ悲しいかな。

 諸君は偉大なる風博士の遺書を読んで、どんなに深い感動を催されたであらうか? そしてどんなに劇しい怒りを覚えられたであらうか? 僕にはよくお察しすることが出来るのである。偉大なる風博士はかくて自殺したのである。然り、偉大なる風博士は果して死んだのである。極めて不可解な方法によつて、そして屍体を残さない方法によつて、それが行はれたために、一部の人々はこれは怪しいと睨んだのである。ああ僕は大変残念である。それ故僕は、唯一の目撃者として、偉大なる風博士の臨終をつぶさに述べたいと思ふのである。
 偉大なる博士は甚だ周章《あわ》て者であつたのである。たとへば今、部屋の西南端に当る長椅子に腰懸けて一冊の書に読み耽つてゐると仮定するのである。次の瞬間に、偉大なる博士は東北端の肱掛椅子に埋もれて、実にあわただしく頁をくつてゐるのである。又偉大なる博士は水を呑む場合に、突如コップを呑み込んでゐるのである。諸君はその時、実にあわ
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