ある。次の瞬間に、偉大なる博士は東北端の肱掛椅子に埋もれて、実にあわただしく頁をくっているのである。又偉大なる博士は水を呑む場合に、突如コップを呑み込んでいるのである。諸君はその時、実にあわただしい後悔と一緒に黄昏《たそがれ》に似た沈黙がこの書斎に閉じ籠もるのを認められるに相違ない。順《したが》って、このあわただしい風潮は、この部屋にある全ての物質を感化せしめずにおかなかったのである。たとえば、時計はいそがしく十三時を打ち、礼節正しい来客がもじもじして腰を下そうとしない時に椅子は劇しい癇癪を鳴らし、物体の描く陰影は突如太陽に向って走り出すのである。全てこれらの狼狽は極めて直線的な突風を描いて交錯する為に、部屋の中には何本もの飛ぶ矢に似た真空が閃光《せんこう》を散らして騒いでいる習慣であった。時には部屋の中央に一陣の竜巻が彼自身も亦周章てふためいて湧き起ることもあったのである。その刹那偉大なる博士は屡々《しばしば》この竜巻に巻きこまれて、拳を振りながら忙しく宙返りを打つのであった。
 さて、事件の起った日は、丁度偉大なる博士の結婚式に相当していた。花嫁は当年十七歳の大変美しい少女であった
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