風博士
坂口安吾

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)あろう乎《か》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒髪|明眸《めいぼう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+解」、第3水準1−86−22]
−−

 諸君は、東京市某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであろう乎《か》? 御存じない。それは大変残念である。そして諸君は偉大なる風博士を御存知であろうか? ない。嗚呼《ああ》。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士自体は杳《よう》として紛失したことも御存知ないであろうか? ない。嗟乎《ああ》。では諸君は僕が其筋《そのすじ》の嫌疑のために並々ならぬ困難を感じていることも御存じあるまい。しかし警察は知っていたのである。そして其筋の計算に由れば、偉大なる風博士は僕と共謀のうえ遺書を捏造《ねつぞう》して自殺を装い、かくてかの憎むべき蛸《たこ》博士の名誉毀損をたくらんだに相違あるまいと睨《にら》んだのである。諸君、これは明らかに誤解である。何となれば偉大なる風博士は自殺したからである。果して自殺した乎? 然《しか》り、偉大なる風博士は紛失したのである。諸君は軽率に真理を疑っていいのであろうか? なぜならば、それは諸君の生涯に様々な不運を齎《もた》らすに相違ないからである。真理は信ぜらるべき性質のものであるから、諸君は偉大なる風博士の死を信じなければならない。そして諸君は、かの憎むべき蛸博士の――あ、諸君はかの憎むべき蛸博士を御存知であろうか? 御存じない。噫呼《ああ》、それは大変残念である。では諸君は、まず悲痛なる風博士の遺書を一読しなければなるまい。

    風博士の遺書
 諸君、彼は禿頭である。然り、彼は禿頭である。禿頭以外の何物でも、断じてこれある筈《はず》はない。彼は鬘《かつら》を以て之の隠蔽をなしおるのである。ああこれ実に何たる滑稽! 然り何たる滑稽である。ああ何たる滑稽である。かりに諸君、一撃を加えて彼の毛髪を強奪せりと想像し給え。突如諸君は気絶せんとするのである。而して諸君は気絶以外の何物にも遭遇することは不可能である。即ち諸君は、猥褻《わいせつ》名状すべからざる無毛赤色の突起体に深く心魄を打たるるであろう。異様なる臭気は諸氏の余生に消えざる歎きを与えるに相違ない。忌憚《きたん》なく言えば、彼こそ憎むべき蛸である。人間の仮面を被り、門にあらゆる悪計を蔵《かく》すところの蛸は即ち彼に外ならぬのである。
 諸君、余を指して誣告《ぶこく》の誹《そしり》を止《や》め給え、何となれば、真理に誓って彼は禿頭である。尚疑わんとせば諸君よ、巴里《パリ》府モンマルトル三番地、Bis, Perruquier ショオブ氏に訊き給え。今を距ること四十八年前のことなり、二人の日本人留学生によって鬘の購《あがな》われたることを記憶せざるや。一人は禿頭にして肥満すること豚児の如く愚昧《ぐまい》の相を漂わし、その友人は黒髪|明眸《めいぼう》の美少年なりき、と。黒髪明眸なる友人こそ即ち余である。見給え諸君、ここに至って彼は果然四十八年以前より禿《は》げていたのである。於戯《ああ》実に慨嘆の至に堪えんではない乎! 高尚なること※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしわ》の木の如き諸君よ、諸君は何故彼如き陋劣漢《ろうれつかん》を地上より埋没せしめんと願わざる乎。彼は鬘を以てその禿頭を瞞着《まんちゃく》せんとするのである。
 諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵であるか? 否否否。千辺否。余の生活の全てに於て彼は又余の憎むべき仇敵である。実に憎むべきであるか? 然り実に憎むべきである! 諸君、彼の教養たるや浅薄至極でありますぞ。かりに諸君、聡明なること世界地図の如き諸君よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を認容することが出来るであろうか? 否否否、万辺否。余はここに敢《あえ》て彼の無学を公開せんとするものである。
 諸君は南欧の小部落バスクを認識せらるるであろうか? もしも諸君が仏蘭西《フランス》、西班牙《スペイン》両国の国境をなすピレネエ山脈をさまようならば、諸君は山中に散在する小部落バスクに逢着《ほうちゃく》するのである。この珍奇なる部落は、人種、風俗、言語に於て西欧の全人種に隔絶し、実に地球の半廻転を試みてのち、極東じゃぽん国にいたって初めて著しき類似を見出すのである。これ余の研究完成することなくしては、地球の怪談として深く諸氏の心胆を寒からしめたに相違ない。而して諸君安んぜよ、余の研究は完成し、世界平和に偉大なる貢献を与えたのである。見給え、源義経は成吉思汗《ジンギスカン》となっ
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング