置き残して、列車は通過してしまつたのである。
 この男は列車によつてゞはなく、列車を飛び越したことによつて、瘤や傷をつくつたけれども、生命に別状なく、且、この意外な結果にびつくりして、自殺を断念してしまつた。
 かういふ稀有な出来事も実際有りうるのである。このことが実際起つた数年或ひは十数年以前に、我国のある戯曲家がかういふ稀有な場合を想像して(――恐らくこんなことが実際有り得ようなどゝは思はずに――)一幕の喜劇を創つてゐた。読者や観客も亦、こんなことが実際有り得ようとは夢にも思はず、作者の奇智を娯しんでゐたのであつた。
 この奇抜な出来事は翌日の新聞に、落し物や寄附の記事とまぢつて、最も小さく報道された。さうして人々の注意も惹かず、尚悪いことには、かういふ事も有りうるといふ科学的役割を果すことなく、有耶無耶のうちに時の眼を素通りしてしまつたのである。
 まつたくもつて新聞といふものは、その報道の理論的基礎が曖昧である。人殺しを五段抜きで報道すべきであるか、この不可思議な出来事を五段抜きで紹介すべきであるか、どちらが有益であるかといへば、これには多くの議論が必要な筈で、生憎我々の新聞の
前へ 次へ
全17ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング