である。だから、アラ煙草の灰が落ちたわよ、とか、何かしら喋らずにゐられない。けれども寂念モーローの先生は、凡そ天地に生あるものは運動するといふ法則を忘れて、瑜伽《ゆが》の断食行者にしては少々だらしなくノビすぎて全然化石してゐるのであつた。
ところが、颯爽の先生は、これは又、忙しい。彼は四五人の御婦人を周囲に侍らせ、談論風発、間断なく喋つてゐる。さうして、時々、ビール瓶が鳴り響くほど、カラ/\と笑ふ。さて周囲の御婦人にビールを差し、その都度、プロヂットとか、チェリオとか、乾盃し、多忙である。と、隣席の客をつかまへて迎へうち、自分の席へ拉し来り、又隣席へ割りこんで、談論風発、カラ/\と笑ひ、ビールをつぎ、プロヂット、チェリオ、間断なく乾盃してゐる。
彼の乾盃の相手にならない唯一人の人物といへば、それはたゞ寂念モーローの先生であつた。
寂念モーローの先生と颯爽の先生と、この二人がどういふわけで連立つて酒を飲みに行くのであらうか。世の中には色々と解き難い謎がある。友情とは何か。握手も乾盃も会話も不必要な無関心。さうかも知れない。握手だの乾盃だの会談などゝいふものは赤の他人か仇同志のすることだ。まことに二人の友愛は比類なく純粋深遠な交情であつた。
三 更にも一人の冷静なる居士のこと附たり凡そ無意味なる遊興のこと
ところが、こゝに、更にも一人の親友がゐた。私は徒《いたずら》に読者を混乱に陥らせてはいけないので、一人づゝ登場を願つたわけであるが、先程御紹介に及んだ巴里風の酒場には、寂念モーローの先生と颯爽の先生のほかに、更にも一人決して欠けることのない一人物がゐたのである。この三人は、二人だけで現れることもなければ、一人だけで現れることも先づなかつた。
この人物は、坊主の大学校に縁故はあるが、まだ先生ではなかつた。或ひは明日にも先生になるかも知れないけれども、一生うだつが上らないかも知れない。彼はもう研究室に七年間も坐り通してゐるのであつたが、この調子では、もし先生になれなければ、さうして追ひ出されでもしない限り、遂に一生坐り通してとはの眠りにつくかも知れない。
この研究生は前記二先生の後輩で、年の頃は三十二三と思はれるが、常に落付き払つてゐて、冷静で、物に驚くことも尠く、これ又立派な青年紳士であつた。
彼は至つて口数が尠かつた。無口といへば寂念モーローの先生も至つて喋らぬ生れつきではあつたけれども、然し尚その職業柄一日に数時間づゝ喋り暮してゐるに比べて、この冷静なる居士ときては一日に数へる程しか喋つてゐない。然し寂念モーローの先生ほど、だらしなくはないのである。どこかしらに青春と生気があつた。
たとへば今や自動車ポンプがサイレンを鳴らして学校の前を走つて行く。するとこの冷静なる居士は何気なく研究室の椅子を離れて、もとより同僚に一言半句物言ひかけることもなく、扉をあけ、扉をしめて、去つて行く。誰しも便所へ行つたのだらうと思ふことしか出来ないのである。
ところがこの冷静なる居士は、静かな足どりで階段を降り、便所の前も通りすぎて、石段をふみ、街の方へと歩いて行く。もしも我々があとをつけてゐるとすれば、さては煙草を買ひに行くのかとこの時やうやく気がつくのである。
校門をでると、静かに右へ曲る。けれども煙草屋の前を素通りして、折からバスが来たとすればバスに乗るし、生憎バスが来なければ、尚もまつすぐ歩くのである。こゝに至つて我々が、さてはと思ひ当ることには、冷静なる居士が校門をでゝ曲る時に何気なく行く手の空を見たことゝ、彼が格子を離れる直前に学校の門前を右へ走つた自動車ポンプのサイレンがきこえたことを結び合せて、案外これは火事見物におでかけのところだな、といふ思ひがけない一事に気付くのであつた。然しながら我々はこれを彼の歩きぶりから看抜《みぬ》いたのでなく、ほかの如何なる目的も想像しがたい理由によつて、かう考へてみるのであつた。
然し、この想像は正しかつた。否、多分、正しいのだらうと私は思ふ。
我々は日頃巷に自動車ポンプのサイレンを聞きなれてゐるが、その走り去つた方向に火の手を見たといふことがない。もし見たといふ人があれば、彼はまさしく神の特殊な恩寵を受け、奇蹟を行ふ人である。それ故普通我々はたとへ火の手が見えなくとも自動車ポンプの走り去つた方角に向つて二足三足走りかけてみることがないでもない。火の手に向つて走ることは今日も尚我々の宿命なのである。
けれども、火の手に向つて丁度手洗ひに赴くやうに静かに歩くといふことは、我々の習慣ではない。且又、見えない火の手に向つて黙々と歩くことも我々の習慣ではないし、たとへ自動車ポンプの走り去つた方角へ走るバスであるとはいへ、どことも見えぬ火元を指して静かにバスに乗りこむことは
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