酒屋の軒先一足這入つた所でポカンと立つて、犬がおあづけをしてゐるやうな恰好で、小僧がコップに酒を汲むのを待つてゐる。あれだけは止せばいゝのに、と大勢の生徒の中には(これもみんな坊主である)変に力瘤を入れながらヤキモキする奇特な味方もゐるのであつたが、かういふ純粋な友情も寂念モーローの先生には通じる筈がないのであつた。
ところが、この先生にも相棒があつた。相棒と呼んで悪ければ、親友と言ひ直しても差支へはない。
これもこの大学校の先生で、だからやつぱり元来坊主で、仏教史を受持つてゐる。齢はこれも三十七八といふところだが、これは又見るからに颯爽として、これが坊主の先生だとは誰の目にも分らない。常々リュウとした流行の背広服を着用に及び、大股に風を切つて颯々と歩き、胸のポケットからハンケチをとりだして指先でいぢくりながら、ダンスホールへ急ぐやうに教室へ駈けこんでくる。
何を覚えてきたのだか確かなことは分らないが、とにかく外国を一まはりして来たこともあつて、坊主に関することだけしか知らないなどゝ考へては、大変失礼なことになる。
ところが、この先生は近頃思想が変つてきた。といふのは、誰の話にしても、坊主の学校の先生をして、一生の夢をその中へ封じこんで満足してゐる筈はないが、この先生も近頃フツフツ坊主の先生に厭気がさして、天下の政治家にならうといふ大きなことを考へはじめた。
かういふ派手な考へは、然し、この先生の肚の底に昔から潜んでゐたに相違ない。この先生が学者にならうと考へたのは、坊主よりは、坊主の学校の先生が派手だといふ見当からであつた。その頃は坊主の学校の先生以上に派手な夢を走らせる自由がなくて、適々《たまたま》口をすべらして天下の政治家になりたいなどゝ言ひだすと、墨染の衣ひとつで勘当になるのであつた。だから、かういふ派手な思想は浮かぶ余地がなかつたのだ。愈々学者になつてみて、天下の政治家になりたいといふ熾烈な望みは、ナポレオンの征服慾と同じ広さで、みる/\天地にひろがつた。
念のために、分りきつたことを説明する愚かさを我慢していたゞきたい。といふのは、元来坊主といふものは、天下の政治家に大変良く似た商売だといふことである。
あの坊主には素質がある、といふことになると、これはつまり、あの坊主はお経を覚える暗記力が旺盛だといふ意味ではない。尤もらしい話しぶりに妙を得てゐて、善男善女をまるめこむ素質があるといふことである。
尚その上にも素質があるといふことになると、これは即ち、一山大衆の中で徒党を結んで管長猊下改選のどさくさまぎれに一儲けする能力を蔵してゐるといふ意味になる。だから坊主は政治家だ。一人前の坊主になるには、一人前の政治家と同じ修業を重ねたうへに、お経を読むだけ余計な手間がかゝるのである。
けれどもこの颯爽の先生に坊主の素質――つまり政治家の素質が果してあるかといふことに就いては、私に断言の確信がない。成程彼は弁説まことに爽かである。そのうへ、態度が人を惹きつける。安つぽさがないのである。けれども私はかういふことを知つてゐる。つまり、善男善女をまるめこむには、相当地味な忍耐力がいる筈である。ところが、この先生には、地味なところが一つもない。たゞ派手である。さうして全然理想家である。理想政治といふことがあるから、理想家また政治家であるといふなら、無論彼ほどの政治家は尠《すくな》い。
生憎坊主の政治家は先例が沢山あるのであつた。坊主の代議士といふのもあるし、坊主の大臣といふのもある。尚煽情的なことには、坊主の学校の先生の代議士といふひどく似寄つた先例まであるのであつた。だから颯爽の先生はまつたく落付払つてゐて、立候補の名乗りひとつで忽ち代議士になれるぐらゐに満々たる自信をいだいてしまつたのである。
この先生の趣味として、この先生はオデンヤなどでチビリ/\と大酒飲んでゐることは嫌ひであつた。四畳半も性に合はない性質だつた。そこで寂念モーローの先生が一秒でも長く徳利のそばに坐つてゐたい思想であるのに、この先生は無理無体に寂念モーローの先生をオデンヤから引ずりだして、巴里風の酒場へしけこむ習ひであつた。
そこは言ふまでもなく電髪の婦人がゐて、ショパンもジャズも鳴りひゞいてゐる。
けれども、寂念モーローの先生は、かういふ所へ現れても、やつぱりどうもどこ一つとして颯爽とした素振りを見せない。やうやく此処へ辿りつく頃には常に益々モーローとして、一番手近かなソファーを見つけて忽ちグッタリのびてしまふ。けれども場所柄に順《したが》つて、ひとりの電髪婦人を膝の上にのせてゐる。電髪婦人も数あるうちには性来モーローとして無口の婦人もあるのであつたが、男の膝の上に乗つかつて二時間も黙つてゐるのは既に性質の領域でなく悟道に関する問題
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