俗物にとっては奥ゆかしさよりも薄気味わるさが感じられるもので、またそれは実力がないせいだろうととかく俗物はそんな風に解釈したがるものだ。そこでひとつ馬庭の百姓剣法をからかってやろうじゃないかというので、生意気な武者修業者が村へやってくる。すると野良を耕している老人や子供なぞに手もなくひねられて逃げて帰る。講談にはそんな話がでてくる。
私は子供のころから、この馬庭念流に愛着をもっていたが、たまたま桐生に住んで、今も馬庭に昔と同じように村人によって念流が伝承されていることを知った。
私はこの正月の道場びらきに見物にでかけたが、まったく講談本そっくりだ。現在の四天王は六十がらみ、五十がらみの人たちであるが、いずれも見るからに村夫子《そんぷうし》。八十前後の老人が三人ほどイソイソと袋竹刀や木刀を振って道場に立つ。野良からあがって手足をすすぎ紋服や垢のつかない着物をきて晴れの道場びらきに出てきたという様子である。
モモダチをとって木刀を握って立つと人相がキリリと一変してひきしまる。腰もピンとはるような感じで、講談本さながらの楽しさである。
今の物とはまるで違う昔のままの面小手をつけ袋竹刀
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