えゝ」
楠本は、きまつて、波子の衣裳、着つけ、化粧などをひとわたり讃めて、時々、着物にさはつてみたり、手を握つてみたりする。はじめ、波子は、なんの気もなかつたが、次第に触り方が多くなつたり、手を握る時間が長くなつたりするので、忽ち、いやになつた。さう気がつくと、楠本の眼つきが助平たらしくて、やりきれなかつた。それ以来、さういふことが始りさうな気配をみると、さつさと部屋をとびだすことにした。然し、楠本は平然として、赧《あから》みながら逃げ失せにけり/\などと言つてゐる。波子は立腹し、扉に鍵をかけて、散歩にでかけてしまつたことがあつた。一時間ぐらゐして帰つてきたら、楠本はまだ悠々と部屋にゐて、鍵をかけられたのを幸に、机の上のノートブックだの手紙だのを見てゐた。机の中も、ひそかに掻きまはしたのである。写真が一枚なくなつたのに気付いたのは、後の話であつた。
この男は、又、波子の部屋へくるたびに、必ず、お聟さん、どうどす、四五人、心当りがおまんのやが、と言ひだすのである。
波子に言ふばかりではなかつた。父にも、母にも、言つた。年頃の娘のゐる家庭で、かういふ話は、時候見舞の挨拶のやうなもので、波子もうんざりするほど聞いてゐたから、気にもとめたことはなかつたし、第一、いやらしい楠本の持ち込んできた聟さんなど見向きもしたくなかつたが、楠本は、実は真剣に、伝蔵を口説きはじめてゐたのであつた。
波子の縁談が急速に一家の話題となつたのは、この時からのことであつた。
三
伝蔵一家の遠縁に当る人が持込んできた候補者で、同郷の出身、三十歳、技師をしてゐる遠山といふ青年であつた。
母の葉子が、すぐ、この話に乗気になつたのは、そのころ、楠本の口説が執拗を極めてゐて、伝蔵が、いつ、その気になるか測りがたい情勢であつたので、その対抗といふ気分もあつた。
葉子は、伝蔵の死花ぐらゐ厭なものはないと思つてゐた。死花といふ言葉だけでもゾッとするぐらゐで、その死花をとりまいて集つてくる有象無象が、内心、最も不愉快きはまる存在であつた。娘のことまで、この連中とつながりを持つに至つては――堪えられないことである。折から、遠山青年の話で、忽ち乗気となり、ともかく、交際させてみようといふ伝蔵の賛成を得た。伝蔵も亦、この話には、相当、乗気を見せだしたのである。
修身の「ヨイコドモ」のやうな男が実在しようなどと、波子は夢にも考へてゐなかつた。ところが、こゝに、現れたのである。しかも、それが、自分のお聟さんだといふに至つて、尠《すくな》からず、狼狽した。実に、遠山青年は、酒・煙草をのまず、活動写真や芝居は義理によつて三年に一度ぐらゐづゝ見物し、女の子には目もくれたことがない稀世の謹厳居士であつた。
親の命令によつて、二人は時々散歩したが、話といふものが、まつたく、なかつた。遠山青年は音楽に趣味もなく、スポーツに興味もなかつた。と言つて、ディーゼル・エンヂンに就て話をもちかけるわけにはいかないから、早慶戦ぐらゐのことは厭でも話しかけずにゐられない。すると、さうですか、うちの会社にも、野球だのフットボールのチームがあるやうです、とだけ言つた。あるとき、二人で映画見物に行くと、遠山青年は長蛇の列を尻目にかけて、それが切符を買ふ順を待つ人々だとは微塵も気付かずに、横から手をだして、ケンツクを食つた。ケンツクはとにかくとして、蜿蜒長蛇の列が映画見物のためであるとは! 彼の驚きは深刻であつた。さて、映画見物の後、その感想をもとめると、画面の横の字を読んで急いで写真を見直さなければならないので、非常に骨が折れた、とだけ答へた。映画をみて、さういふ感想に就てだけ論じ合ふのでは、助からない。
遠山青年は近世稀な聖人である、と、波子は堅く断定した。然し、とても一緒にくらす勇気はなかつた。遠山青年と結婚するぐらゐなら、孔子様の写真を壁にはつて、尼さんになる方を選びます、と母に答へて、怒られたのである。
もと/\波子はまだ結婚したいとは思はなかつた。二十一であつたが、二十三か四ぐらゐまで、映画だのレビューだの見て歩いたり、友達と遊んだりして、それから結婚したいと思つてゐた。どうせ、しなければならぬ結婚であるから、それまでに、あきるだけ、遊びたかつた。
結婚の話がでるたびに、波子は、この考へを、率直に、父母に語つた。けれども、葉子は、さういふ思想を眼中に入れなかつた。とるに足りぬ流行思想だと言ふのであつた。
「いつ間違ひが起るか知れたものでないから、早くかたづいてもらひたいよ」
と、あからさまに言ふのである。
そんなときの、娘の言葉などはてんで無視して、冷然と自説を押し通すときの母親ほど、綺麗に見えるものはなかつた。波子は、ほれぼれとするのである、四十五だといふのに
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