笑ひ、深く、心にとめたこともなかつたのだ。
母の眼に涙を見て、波子は、ふと、気がついた。涙を見せない女。涙とは。波子は、涙の貧しさに、あつけにとられた。あの美しい母が、涙のために、なんと貧しいことだらう! あの端麗の輪廓も、涙のために、くづれてはゐない。あどけない幼さも、くづれてはゐない。涼しい眼すら、涙のために、決して曇りはしないのに。母の貧しさ! 泣く母も、なほ、美しかつた。けれども、貧しく、やせてゐた。
波子は、母をみつめる。
「今まで、どこに、ゐましたか」
貧しい女の声は鋭い。波子は、答へようとしない。貧しい女をみつめてゐる。その貧しさを、みつめてゐる。
「誰か、好きな人が、あるのですか!」
貧しい女は、叫ぶ。
波子は、答へない。
不思議な、深い緊張が、波子の全身をしめつけてきた。一途に鋭くひきしまり、わけの分らぬ叫び声が、でようとした。好きな人! 貧しい女は、わけの分らぬことを言ふ。今、たしか、言つたのである。波子は、なにか、とらへようとした。然し、みんな、逃げて行く。一本の鞭のやうに、ひきしまるからだ。たゞ、眼だけ、大きくひらかれる。
「言つてごらん! 誰ですか。あなたの好きな人は!」
「ハヽヽヽヽ」
波子は笑ひだした。ほてつた頬に手をあてゝ、立上つた。
母も、立上る。顔色が、一時に、ひいた。
「おまへは。――まさか……」
母は狂暴な野獣に変り、とびかゝる身構へになる。立ちすくんで、娘をみつめた。絶望の混乱が、眼を走つた。
「アハヽヽヽヽヽヽ」
波子は、けたゝましく、笑ひしれる。波子は、歩きだした。手を洗ひ、ぬれたタオルで顔をふく。タオルを投げだして、寝台に、からだを投げた。
「もう、行つて。私は、ねむい」
さうして、がつくり、うつぶした。
八
伝蔵は、娘の拒否が激しすぎるのに、やうやく、気付いた。気まぐれや、流行思想でもなさゝうだ、と気付いたのだ。けれども、それが、気まぐれではなく、思ひつめたあげくではあつても、二十一の娘に、何事が分つてゐると言へようか。男の心も、知らない。結婚とは。家庭とは。幸福とは。それが、どのやうに味気ないものであるか、それも知らない。二十一の娘には、二十二の人生すら、分らないのだ。まして、三十の人生も、五十の人生も、知る筈がない。知つてゐるのは、夢ばかりである。
平凡。伝蔵は、それに就て、考へる。もし、人生に、たつたひとつ、狂ひのないものがあるとすれば、それは平凡だけである。あとはみんな、狂つてゐる。けだものである。瘋癲《ふうてん》病者と同じことだ。
だから、波子の拒否がどのやうに激しくとも、遠山青年をあきらめることができなかつた。波子は何も知らないのだ。どのやうに思ひつめて遠山青年を嫌ふにしても、その根拠は凡そ薄弱な筈である。波子自身の将来のために、危険ではあつても、利益ではない。
然し、思ひつめて、自殺でもしたら。――伝蔵は、そこまで考へて、うんざりする。長いものには捲かれろ式の気持となり、波子の意志を汲むよりほかに仕方がないと思ひはする。けれども、再び、平凡に就て考へて、遠山青年の平々凡々そのものゝ風貌に思ひ至ると、どうしても、あきらめきれなくなるのであつた。
伝蔵自身の一生も、平凡ではあつた。大極から見れば、平凡そのものゝ一生と言ふよりほかに仕方がない。然し、それですら、多くの波瀾を孕み、無数の瘋癲人を孕み、さうして、多くの波瀾と無数の瘋癲人を押しつぶして、やうやく、平凡であり得たのだつた。妾も、何人となく、つくつた。株に手をだして、失敗もした。政治にかつがれて、落選し、当選しても、莫大な金を失つた。関係した事業は、ひとつとして、成功しない。――ふりかへれば、その足跡のある所には、必ず、ひとりの瘋癲人が、うろついてゐる。今もなほ一家を構へ、安穏に暮してゐるのが、不思議なぐらゐのものである。
娘の聟として、自分自身をあてはめてみるとき、先づ、まつさきに、落第であつた。妻子を路頭に迷はせもせず、今もかうしてゐられるのは、たゞ、偶然の結果にすぎない。自分ばかりではないのだ。大多数の瘋癲人が、辛くも、人の生計を営んでゐる。一万人の九千九百九十九人が瘋癲人にすぎないのである。偶然、人の生計を維持し得てゐるにすぎないのだ。
伝蔵は、死花に就て、考へる。これは、又、これで、別であつた。所詮、瘋癲人は、その一生を終るまでが、瘋癲人であるよりほかに、仕方がない。二十五歳の青年のとき、五十歳の自分が、大人げもなく酒に酔つて猥談し、陣笠の夢を捨てきれずにゐる。それを想像することができたであらうか。碌々として生を終る。自分自身の一生に就て、さういふことは感じてゐた。碌々たるに変りはないが、すてきれず、あきらめきれぬ老醜であつた。
老骨よ。何処をさま
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