める。実際、父を、みつめた。いつまでも、みつめた。
 伝蔵も、波子を、みつめる。然し、荷のすぎた努力である。彼はたうとう、眼をとぢてしまつた。
 波子は、答ふべき言葉が、分らなかつた。問題は、このやうな話の持ちかけ方によつて左右さるべき性質のものではない。それだけは、分るやうな気がした。答ふべき言葉が分らぬ以上、伝蔵が何を言つても、黙つて、かうして坐つてゐよう、と決心した。もう、いゝ、と父が言ふまで、いつまでゞも坐つてゐる。そのうちに、答ふべき言葉が見つかつたら、返事をするまでの話である。
 どれぐらゐの時がすぎたか、こんな稀代な場合にのぞんで、とても時間の測定などは及びもつかない。五分だか、二十分だか、とても分らぬ。御先祖御一同様が、どんなお顔で御覧になつてゐるだらうか。波子は、まつたく、がつかりした。
 丁度いゝぐあいに、そこへ女中がやつてきて、楠本の来訪をつげた。なるほど、玄関の方に当つて、罷りいでたるは/\、と唸る声がきこえてゐる。
 女中の取次をうけて後も、伝蔵は、しばらく、身動きもしなかつた。こゝが大切なところである。伝蔵は、それを考へてゐたのであらう。と、再び、彼は平伏した。頭を畳にすりつけた。やゝ、長い時間。さうして、立上ると、一言もあとに残さず、又、目もくれず、立去つたのである。
 父の跫音《あしおと》が消えてしまふと、波子は、突然、めまひがした。あらゆる力が、ぬけて行く。あらゆる思考が、ぬけて行く。さうして、小さな悲しさが、胸の底に、ひとつ、残つた。
 波子は、孤独をだきしめて、長いこと、坐りつゞけた。さうして、父に答へる言葉が、だん/\ハッキリ分つてきた。御先祖御一同様に誓つて、どうしても遠山青年と結婚しない、と心に堅くきめたのだ。
 波子は仏壇につゝましく、合掌し、燈明をあげ、鉦《かね》をならした。
「ワタクシはキンゲン居士と結婚しなければなりませんか。ワタクシはキンゲン居士がキラヒです。ですから、ワタクシは、キンゲン居士と結婚イタシマセン」
 ねむたくなるやうな、ものうさであつた。波子は、すゝり泣いてゐた。

       七

 遠山青年の家へ遊びに行つてくるやうに、と吩付《いいつ》かつた日は、映画見物に行つてしまつた。遠山青年が遊びにくるといふ朝は、普段着のまゝ、女中の下駄をつゝかけて、裏口からでゝ、隅田川へ、ボート競走を見物に行つた。
 その日は、夕食も外でたべて、人々の寝しづまる頃に帰つて来た。友達も誘はず、一日、ひとり、歩きくらして来たのである。せつない一日であつた。
 どこへ行つても、人がゐる。人、人である。人のゐない場所はなかつた。人の一人もゐない所へ行つてみたいな、さう考へて、歩いてみた。けれども、人は、どこにでもゐる。
 どうして、人のゐない所へ行きたくなるのだらうか。誰も自分に話しかけたり、邪魔したり、しないのに。人は、跫音をたてる。人は、喋る。子供は、泣いてゐる。ボールを投げてゐる。ハモニカを吹いてゐる。
 けれども、深山にも、鳥は啼き、渓流は、がう/\ととゞろいてゐる。森林も、風をはらんで、どよめき、海すらも、鳴りとゞろいてゐるのだ。なぜ、人のゐない所へ行かなければならないのだらう。
 隅田公園のベンチに休んで、汚い水面を眺めてゐる。ウオー。ウオー。ウオー。と、密林の野獣のやうに、叫びたくなる。ウオー。ウオー。ウオー。密林では、誰も返事をしてくれない。自分の声が、木魂になつて、帰つてくる。その声をきく。気を失ひさうな、ひろさ。変に喉の乾いたやうな、空々しい思索がある。自分は、今、ひとりぽつち。はつきり、分るのは、多分、それだけであらう。だが、公園のベンチにゐても、やつぱり、人は、ひとりぽつちに変りがない。石を拾つて投げる。コロ/\ころがり、子供の足にぶつかり、汚い水面へ落ちこむ。面白くも、ないのである。
 浅草へでゝ、知らない雑踏にまぎれる。人波につきあたり、人波をくゞりぬける。ふと、スリに就て、考へた。もし、自分が、スリであつたら。……
 レビューと映画を見て、家へ帰つた。
 その夜、波子は、自分のために涙を流す母の顔を、はじめて、見た。
 葉子の母、波子にとつては祖母に当る人であつたが、それは、女に珍しい豪放な人であつた。孫の波子を愛し、波子のために面白くもない宝塚へ屡々つきあつてくれて、後に、甚だファンになつたが、その祖母が、波子を評して、人に涙を見せない女、と常々言つてゐるといふ。
 涙を見せない女とは、どういふことだらう。あまり利巧な子でもないし、だいゝち、お掃除もしたがらない無性な子だが……つまり、祖母によれば、取柄といふのは、涙を見せないことだけなのだ。時々泣くことも、なきにしもあらず、であつた。それは、本人が、よく知つてゐる。祖母の評言も甚だ当にならないと波子は
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