な男が実在しようなどと、波子は夢にも考へてゐなかつた。ところが、こゝに、現れたのである。しかも、それが、自分のお聟さんだといふに至つて、尠《すくな》からず、狼狽した。実に、遠山青年は、酒・煙草をのまず、活動写真や芝居は義理によつて三年に一度ぐらゐづゝ見物し、女の子には目もくれたことがない稀世の謹厳居士であつた。
 親の命令によつて、二人は時々散歩したが、話といふものが、まつたく、なかつた。遠山青年は音楽に趣味もなく、スポーツに興味もなかつた。と言つて、ディーゼル・エンヂンに就て話をもちかけるわけにはいかないから、早慶戦ぐらゐのことは厭でも話しかけずにゐられない。すると、さうですか、うちの会社にも、野球だのフットボールのチームがあるやうです、とだけ言つた。あるとき、二人で映画見物に行くと、遠山青年は長蛇の列を尻目にかけて、それが切符を買ふ順を待つ人々だとは微塵も気付かずに、横から手をだして、ケンツクを食つた。ケンツクはとにかくとして、蜿蜒長蛇の列が映画見物のためであるとは! 彼の驚きは深刻であつた。さて、映画見物の後、その感想をもとめると、画面の横の字を読んで急いで写真を見直さなければならないので、非常に骨が折れた、とだけ答へた。映画をみて、さういふ感想に就てだけ論じ合ふのでは、助からない。
 遠山青年は近世稀な聖人である、と、波子は堅く断定した。然し、とても一緒にくらす勇気はなかつた。遠山青年と結婚するぐらゐなら、孔子様の写真を壁にはつて、尼さんになる方を選びます、と母に答へて、怒られたのである。
 もと/\波子はまだ結婚したいとは思はなかつた。二十一であつたが、二十三か四ぐらゐまで、映画だのレビューだの見て歩いたり、友達と遊んだりして、それから結婚したいと思つてゐた。どうせ、しなければならぬ結婚であるから、それまでに、あきるだけ、遊びたかつた。
 結婚の話がでるたびに、波子は、この考へを、率直に、父母に語つた。けれども、葉子は、さういふ思想を眼中に入れなかつた。とるに足りぬ流行思想だと言ふのであつた。
「いつ間違ひが起るか知れたものでないから、早くかたづいてもらひたいよ」
 と、あからさまに言ふのである。
 そんなときの、娘の言葉などはてんで無視して、冷然と自説を押し通すときの母親ほど、綺麗に見えるものはなかつた。波子は、ほれぼれとするのである、四十五だといふのに
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