たゞかうなどゝ、夢にも、望んでゐませんよ。安穏に暮せれば、それで幸せではありませんか」
 娘なら――伝蔵は、ふと、思ふことがあるのであつた。娘には、年老いた瘋癲人の、この悲しさが、分つてくれるかも知れない。虚空に向つて、鯨の息吹のやうな、ボオ、ボオ、といふ涯のない長愁を吹きあげてゐるにすぎない暗さであつた。年老いた瘋癲人。娘の手をとり、その胸に、年老いた醜い涙の顔を隠す。娘は、年老いた瘋癲人の半白の髪をさすつてくれる。
「泣かなくとも、いゝのよ。パパ。遠い所へ、旅行しませう。南の国へ。青々と光る海。さうして、かゞやく杜の中を、歩きませう」
 娘は、年老いた瘋癲人の苦い涙を、細い指で、ふいてくれる。
 さうして、二人は、旅にでる。……
 波子と旅行にでかけよう。伝蔵は思つた。
 さうして、二人は、旅にでた。

 山峡の渓流で、鮎船にのり、二人は、無限に、鮎をたべた。波子は五匹で満腹した。大きな、爽やかな、鮎だつた。
 汽船にのり、うねりの高い初秋の海を越えて、島へ渡る。その島には、カトリックの寺院があつた。数へるほどの戸数しかない小さな漁村に、明治初年の古めかしい寺院があつた。禁令三百年。血をくゞつて伝承した切支丹《キリシタン》の子孫が、今もこの島に住み、漁《すなど》り、さゝやかな山峡の畑を耕してゐる。三百年前の十字架が、サンタマリヤが、教会の壇に飾られてゐた。
 このあたりの村々では、往昔、無数の切支丹が、その鮮血を主に捧げたといふ。今は、山も、杜も、海も、たゞ青々と変哲もなかつたが、波子は、なにか、なつかしかつた。
 島の旅館は、普通の民家のやうに、小さく、二人の気まぐれな旅行者以外に、一人の宿泊人もなかつた。あいにく、風呂のわかない日で、と、宿屋の娘がことはりにくる。伝蔵は、その風呂をわかさせるために宿屋の主人を拝み倒さねばならなかつた。
 その夜、波子は、父に話しかけた。
「ねえ、パパ」
 切支丹の島で、最後の返事をきめてもらはう、と波子は思つた。
「ねえ、パパ。私ね。結婚しなくとも、いゝでせう。遠山さんと」
 伝蔵は、本能的な、むつかしい顔をした。
「その代り、ほかの人なら、パパのすゝめる人と、大概、結婚するつもりよ」
 伝蔵は答へなかつた。とりあげた本の頁を、たゞ、めくつてゐた。
「パパ。私の身になつて、考へてちやうだい。あんなキンゲンな人と結婚するのは、
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