あなた……」
 葉子は、ふと、伝蔵に話心かける。伝蔵は、びつくりして、目をさます。
「なんだい。え? バスが来たのぢやないのか」
「いゝえ。この寒さに居眠りして、風をひくぢやありませんか。志田さんの御家族は、幾人。お子さんが、四人、五人?」
「さて。志田さんの子供は、と。五人ぐらゐだらう。それが、どうした」
 葉子は、それに、答へようともしない。それよりも、これが大事だといふやうに、又、風呂敷を包み直してゐるのである。たゞ、思ひついて、きいてみたゞけなのだ。伝蔵も亦、強ひて訊いてみようとはしなかつた。
「おや。雪が、つもりだしたぢやないか。ほら、笹の葉が、まつしろだ」
 伝蔵は叫ぶ。
「…………」
 葉子は、顔をあげようともしない。伝蔵の茶碗に、茶をついでゐる。……
 父も、母も、どうして、こんなに、平然としてゐられるのだらう。……波子は、奇妙に、胸苦しかつた。用もなく、居眠りの人をよびおこす。居眠りの人は目を覚して、然し、べつに、腹を立てた気配もない。てんでんが、バラ/\のくせに、どうして、こんなに、平然と、安心しきつてゐるのかしら。
 夫婦になる。子供を生む。――夫とよばれ、妻とよばれて、そのよびかたに、安心しきつて、身をまかしてゐる。夫とよぶ知らない男と、妻とよぶ知らない女が。
 何もかも、てんでんに、バラ/\だ。渓流の藪に鶯が啼いてゐる。茶店に、立札がある。雲がたれ、いちめんに、雪が降つてゐる。すべて、それらが、バラ/\のやうに、夫とよぶ知らない男と、妻とよぶ知らない女と、子供とよぶ知らない娘と、それが、てんでん、バラ/\に、集つてゐるだけである。……
 それにしても、あの渓流できいた鶯は、はりつめた山気すら鋭くつんざき、めざめるぐらゐ美しい一声だつた。さうして、あの雪のふる渓流も、あれは都から何里も離れない所だといふのに、人の訪れを映したことすらもない幽気にみちた色調だつた。
 だが、その鶯も、啼声の美しかつたことだけは忘れてゐないが、もはや耳には、思ひだせない。さうして、渓流の深い色も、心の底に、もう、色あせてしまつてゐた。
 たゞ、今も尚、忘れることのできないものは、旅のあひだ吹きつゞけた、あの、涯のない風であつた。からだのまはりに何物もなく、縋るべき一人の知りびともなく、着々と吹く風のみがあつた。眼をとぢれば、眼に、その風が、見えてゐた。さうして、今
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