波子
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)異体《えたい》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チビ/\と
−−

       一

「死花」といふ言葉がある。美しい日本語のひとつである。伝蔵自身が、さう言ふ。さうして、伝蔵が、死花を咲かせるなどと言ひだしたのは、波子の嫁入り話と前後してゐた。
 五十をいくつも越してゐない年であるから、まだ、死花には早やすぎる。けれども、芝居もどきの表現が好きな父で、その一生も芝居もどきでかためてきたから、うつかり冗談だと思つてゐると、いつ、何をやりだすか分らない。けれども、波子は、ばからしかつた。やる気なら、黙つて、さつさとやりなさい、と思つた。
 母も、やつぱり、ばからしがつてゐると見え、苦笑しながら、父をたしなめてゐる。けれども、母は、やがて、泣きだしさうな顔になつたり、失笑したり、表情を失なつてしまつたりする。すると、伝蔵は、怒つたやうな声になる。先に黙つてしまふのは、母であつた。
 それを見物してゐる波子は、母が気の毒だとは思はずに、父が可哀さうになるのであつた。年寄の冷水はおよしなさい。今更家名に傷をつけたり、財産を失ひでもすれば、波子たちが可哀さうではありませんか、と、大概最後にいつぺんは、母がかういふ。それをきくと、波子は、必ず、腹が立つた、私のことなら、余計なお世話よ、と、波子は肚に呟くのである。
 死花を咲かせるとは、どういふことだらう。母に訊いてみる。投機に手を出すことだ、と母は言ふ。又、代議士になりたいのだ、と言ふこともある。ボロ鉱山を買ふ気なのだ、と言ふこともあつた。要するに、母にも、異体《えたい》が知れないのである。
 伝蔵は、仕事盛りの年頃には小胆で、これといふ大きなことはしなかつたから、大きな失敗もなかつたが、時々、投機や政治や事業に小さくチビ/\と手を出して、合せてみると、相当大きく先祖代々の財産をすりへらした。女遊びもし、さういふことでも、大概、手切金をまきあげられて、先祖代々の財産をへらした。
 長男を北アルプスの遭難で失つたのが、七年前で、そのとき、彼の生活が、一応、ガラリと変つたのである。
 投機も、やめてしまつた。政治も、やめた。女遊びも、やめたのである。酒さへ量が少くなつて、めつきり、老けてしまつたのである。
 
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