制で有名なヒダの白川郷の写真を見ると、そこのジイサン連の顔が似たようなコブコブと谷間が集ってできてる顔ですね。すると、こういうのがヒダの顔かなア、と私は思った。
いったいヒダというところは、昔はミノとヒダを一ツに合せてミノとよんでいたようだ。だから昔のミノはヒダを含んでいるし、ヒダはミノ全体でもあって、私が昔のヒダ王国というヒダはミノも含めた全体です。また信濃も一しょに含まれてこの一族の本貫本拠をなしていたとみてよろしい。越前の大野郡も含まれていたようだ。その古いミヤコは今のヒダの高山と古川の中間にあったと見られるが、また信濃の松本のあたりにもあったようだし、南下して今のミノの武儀《むぎ》郡を中心にミノのほぼ各郡と伊那にもミヤコか行宮《あんぐう》がちらばっており、一人の王様の南下の順路にいくつも出来たり、別の代の王様の居城であったり、色々のようだ。
当時は今のカガミガ原のあたりまで入海がきておって、大和飛鳥へ進出するには、陸路づたいの軍兵もあったろうが、舟でこの辺から出て伊勢熊野へ上陸、主力はそっちから攻めこんだようだ。伊勢から鈴鹿を越えたものと、熊野から吉野へ降りて大和へ攻めたものとあったらしい。神武天皇の東征の順はそれ以前の大和平定者たる物部氏の東征の順路と、ヒダ王家の大和進出の順路とを一ツにしているようである。天智以前の国史上の人物には、本当の史実が各時代の人物や事件に分散されたり集合されたりしておって、各々の時代に各々の特定の個人や業績があったわけではない。モロモロの人物や事件を合計して割ると、いくつもない人物と事件に還元されてしまう。本当の史実は百年間ぐらいの短期間に起った大和飛鳥の争奪戦にすぎなくて、九州四国中国方面から攻めてきて大和を平定したニギハヤヒ系の物部氏、次にこれを元の四国へ迫ッ払ったヒダ王家、次にその嫡流をヒダへ追い落して亡したヒダ庶流たる天皇家。この争奪戦のわずかの秘史を神話と三十代の天皇の長い国史に書き代えて、その秘められた史実を巧妙に偽装してしまったのであろう。
朝敵となったヒダ人の多くは信濃から関東へ東国へと逃げたのもあるが、信濃の松本からサイ川づたいに信濃川本流へでて出羽方面まで逃げたのが多かったようだ。平家の落武者という人間人種は、白川の如くに後日たしかにそれが混入したようでもあるが、主としてこの時のヒダ人の落武者ではないかと思う。ヒダ嫡流の皇子サマか天皇サマは殺されて白い鳥になってどこかへ飛び去ったという。ヒダの王様は神の意か、天皇の意か、コウとよんでいたようで、ヒダの古い京にコウノ岡、コウの森などの名が残っていますが、今も諸国にコウの鳥の伝説をもっているのはこの落ち武者の部落のあったところでしょう。白山神社、スワ神社などもここの神様でしょうが、八幡様もそうらしい。ほかにもいろいろこの一族の神様がありますが、以上の三ツなどがヒダ族の主要なウブスナのようです。ヒダ自身の第一の神社は水無《みなし》神社ですが、これはどうやら白鳥になって飛び去ってこの世から身体を失った人、実際はヒダへ追いつめられて負けて死んでその首をミヤコへ持ち去られてしまった人、そのヒダ王朝の嫡流の最後の人を祀ったものらしく、水無《みなし》神社は身無《みなし》神社の意であろうと私は解しております。
ヒダ王朝の嫡流を亡して庶流がとって変る時代の国史は、その偽装が幾重にも幾重にもと張りめぐらされておって、恐らく嫡流そのものの本体をいくつにも解体して、その一ツに自分のやった悪役を押しつけたりしているように思われるのですが、たとえば悪役の蘇我氏、または蘇我氏の先祖の竹内スクネ、これらは実在の人物ではなくて、嫡流を解体して幾体かにわれた分身のその一ツで、竹内スクネは神功皇后の良人《おっと》の天皇たる人の分身でもあるし、蘇我の馬子は推古天皇の良人の天皇たる人の分身でもある。その子孫のエミシも入鹿《いるか》もそうですが、ことに入鹿は聖徳天皇の皇子、つまりヒダ王家の本当の嫡流たる山代大兄《やましろおおえ》王を殺して自分が皇位に即いていますが、実際は架空の人物で、彼は彼が殺した筈の山代大兄その人に当っていると私は解しているのです。そして入鹿であり山代王であり日本武尊であり大友皇子であるところの最後の嫡流は庶流の女帝を軍師とする一派によって亡ぼされた。――この推測は、嫡流方の造った寺の本たる上宮聖徳法王帝説の記事と違っています。この本には明《あきらか》に蘇我入鹿の名がでて山代王を殺し、彼は天皇になっています。この本は一部に於て記紀の史実を否定する材料を提出しているのですが、しかも反対の事実として蘇我入鹿天皇の実在を示している。しからば蘇我氏の存在は架空ではなく実在が明白ではないか。だが、どうでしょうか。
私はこの本もそっくり史実ではないと思っています。この本の作者か、もしくは註釈者(平安末期の相慶子ではなくて、この本の書かれた直後の註釈者)は、本当の史実も知っていました。しかし、この本は時流に即して、現天皇家の定めた国史たる記紀の記述にしたがい、それに合せて法隆寺の縁起や聖徳太子及びその一族のカンタンな歴史を書き残しました。そして現支配者の国史をくつがえして書く自由は許されないので、その偽装の国史に即す限りに於て記紀の誤りを正しておいた。
ところが、作者よりも註釈者の方がもッと大胆で、(実は同一人物かも知れません。かりに註釈者を設定したのかも知れない)たとえば、法隆寺蔵するところの繍帳縫著亀背上の文字を録したのちに、その文字の作者は更々実情を知らざるものである、と意味深重な註釈をつけているのです。そして、聖徳太子の死んだのは、その皇妃の死んだ二月二十一日の翌日である。それは金堂の釈迦像の光背の文字が示している通りである。ところが亀背上の文字は皇妃の死んだ日の翌日、推古三十一年二月二十二日に聖徳太子が死んだと書いている。(この太子の歿年は書紀も古事記も同じです)
ところが註釈者の曰く、釈迦像の光背の文は皇妃の死の翌日に太子が死んだと書いてはいるが、皇妃の死の翌日[#「皇妃の死の翌日」に傍点]とあるだけで、決して同じ年[#「同じ年」に傍点]の翌日とは書いてない。つまり、太子はたしかに二月二十二日に死んでる。しかし、皇妃の死んだ年の二月二十二日ではないのだ、という実に注目すべき意味深重な暗示をなしているのです。
この法王帝説という本の中で最も重大なのはこの註釈のくだりですよ。巷宜、註、蘇我也、という。これも意味深重な暗示らしい。このところでは、記紀の史実に従いながら、何事か重大な暗示をしようと努めており、その重大なカギがこの註釈のくだりに必ず隠されているように私は思う。私が日本の歴史を疑りはじめたのはここから出発しているのですが、この暗示からはまだ直接の解答をひきだすことができません。
欽明天皇の時代に仏教が渡来した。この欽明天皇及びそれ以後五代にわたるヒダ王家の嫡流は皇居を大和に定めつつもヒダにも(今のミノか)居城か行宮があった。飛鳥寺というのは大和の飛鳥ではなくて今のミノの武儀郡あたりにあったんではないかね。聖徳太子の七大寺のうち定額寺(葛城氏に与えた)というのは、ミノか伊那であろう。物部守屋が像をすてたというナニワの堀江はミノの武儀郡と稲葉郡のあたり、入海がカガミガ原まできていた頃のその海ちかい堀江だろうと思う次第がある。今はそこに南波という地名があるとだけ述べておきましょう。くわしい探偵の結果は後日にヌキサシならぬ物的証拠をとりそろえて本格推理日本史を書くことに致します。
推古天皇の小治田の宮は尾張田の宮とよむのだろう。大和にも皇居はあったであろうが尾張田が暗示するように尾張の国境にちかいミノの地に居城があったと私は思う。この天皇の陵は、大野岡の丘の上より後に科長《しなが》の大陵へ移されております。大野というのはヒダ、ミノから越前にもまたがるヒダ王国の要点たる大野郡を指すのでしょう。庶流がハッキリと大和飛鳥にその勢力を定めてから、自分の歴史に必要な皇陵や神社を大和へ移したり造ったりしている証拠の一ツです。ですから、大和よりも早くヒダ、ミノには寺があったに相違ないと思う。長野に善光寺があるのもフシギではないのです。
ヒダの嫡流が負けて亡びたとき、ヒダにあった主要な皇陵はあばかれて持ち去られ、神社の神体も、仏寺の仏像も焼かれたり持ち去られたりしたろうと思われます。しかし、そのとき、わずかながら隠されて残ったものがある。その寺はワケあって再建されないが、名もないお堂のようなものの中に、秘密の仏像だけが今も残って伝わるような事実がありうるような気がする。バクゼンとそういうことが考えられるのである。
しかし、そういうことは過去に於て公然と言いうることではなかったから、何寺や何堂に古代の何があるという確かなことは文献的には知り得ない。過去に庶流の朝廷を認めずに闘争的だったヒダ人も、千年の時の流れに祖先の歴史を忘れきってしまってもいる。
――せめてヒダ人の顔がいくらかでも残っておれば、それだけでもホリダシモノだな……
私はヒダの旅にでるときバクゼンとそう考えて、そこにだけ多少の期待をもっていたのであった。
★
ドシャブリのクラヤミに下呂《げろ》へついた。長い梅雨のあとに更に昨日来の豪雨で、谷はあふれ、発電に支障してか、停電でもあった。
私はヒダの第一夜を下呂でねようとは思っていなかった。もっと名もない町や村で、自分の土地の旅人ぐらいしか泊らないような宿をさがして泊りこんで、古いヒダの顔や言葉が今もどこかにありうるかどうか、私のカンが最も新鮮な第一夜に昔ながらの土地の匂いを嗅ぎ当ててみたい、そう考えていたのだ。
ところが、ドシャ降りである。岐阜駅の鉄道案内所の話では、下呂以外に、ヒダの小さな駅に旅館があるかどうか、たぶんないだろうという話である。ドシャ降りでなければ、まだしもデタラメに下車して当ってみて、民家へもぐりこむ方法を案じることも不可能ではない。ドシャ降りでは仕方がないから、下呂へ降りた。
折からの土曜で旅館はたいがい満員らしかったが、予約した部屋がまだ一ツあいてるが、この汽車で予約の人が着かないからたぶん雨で来ないのだろうという次第で、水明館へすべりこむことができた。
私はこの旅行に「ヒダを語る」というウスッペラな通俗案内書を一冊だけぶらさげて出かけた。ところがこの本は水明館の死んだ先代の著した本だそうだ。その未亡人がやってきて、
「その本はこの土地では手にはいらなくて、一冊ほしいと探していましたが、よくまアお持ちですこと」
再版したいと思って探していたところだが、用がすんだら借してくれと云う。よろしい、と約束してきたが、旅行中に手帳をなくしたので、この本にメモをかきこんだから、まだ用が終らない。もう、じき終るでしょう。
この水明館の先代というのはヒダ出身ではないそうだ。それで却ってヒダについて他国へ紹介したいような気持を起したのかも知れない。ヒダで生れてヒダで育った人というものは、ほとんど自分の国について人に語るべき多くの興味を持たないようだ。
私は考えていた。ヒダの郷土史家の中に、ヒダ流の方法で郷土史を考えている人はないかと。――ヒダ流の方法というのは、ヒダ王朝は日本国史のタブーであり、それは完璧に隠されているが、ヒダに残った伝説をモトにしてヒダ流の国史を考えている人はないか、という意味である。しかし、そういう独特の史家はいなかったようだ。水明館の先代は、むろんそういう史家ではないし、元来が史家でもない。とりとめもない通俗案内書の一種にすぎないのである。
私の部屋の係りは二人のヒダ生れの女中であった。その姉さん株の一人はまさにヒダの顔であった。他国でザラに見られる顔ではない。幾つかのコブがかたまって出来ている顔なのである。こういう顔はその後の旅中に男には三四見かけたけれども、女では彼女の顔が私の見た唯一のものであった。
「いつでしたか、ヒダの顔だと仰有《おっし
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